「中国・日本ガオガオブー」は、ライター田中奈美による日中カルチャーギャップ+アルファを"嗜む"文化考ブログです。
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                                          田中奈美拝
プレミアムフライデーと日本人の「まじめ力」と中国人の「勝手力」

 プレミアムフライデーのニュースをみていて、ふと思った。

 プレミアムフライデーに、真面目に3時退社していては、たぶん、日本人の働き方は変わらないのではないかと。

 

 私のまわりには、大企業勤めの人が極端に少なく、プレミアムフライデーに3時退社したという人はいないし、そういう話も聞かないので、じっさい、どれくらいの人がプレミアムフライデーを楽しんだのか、実感としてわからない。

 

 けれど、テレビのニュースで、ちゃんと早く帰ってお買い物したり、イベントを楽しんだり、「これから温泉行ってきます」などといって、盛り上がっている(あるいは盛り上がろうとしている)人々の様子を見ていると、あらためて、日本人はまじめだなあと感じた。

 

 これが中国の場合であれば、と考えてみる。

 おかみが「いっせいに3時早退しましょう〜」と言っても、現実問題として、そんなゆとり社会ではないから、役所や一部の大手企業は同調したふりはするかもしれないけれど、一般庶民は「どうせ、下々のことはよくご存じないおかみのたわごと」としてスルーするのではないだろうか。(休んだら金もらえる、というのであれば、喜んで休むだろうけれど)

 

 でも、日本人は(一部かもしれないけれど)、ちゃんと仕事をやりくりして3時退社していて、しかもあながち「やらせ映像」ではなさそうだ。

 それらを見ていると、日本人が働きすぎなのは、こんな風に早く帰る日を決めて、みんなでいっせいに休みましょう的なまじめさに起因しているのではないか、と思ってしまった。

 

 日本で仕事をしていると、日本人のやり方は本当にきめ細やかだと思う。一つ一つ、着実に進めて、ミスはあまりないし、逆にミスをしたらすごい怒られる。

 一方、中国の人と仕事をしていると、過程の段階では、ミスは多いし、いいかげんだし、最終形態が見えないし、もう、それはそれは、胃に穴があくほどやきもきする。

 でも、最終段階でいきなり、どーんっとものすごい力を発揮して、意外にもなんとかなってしまう。(ことが、少なくない)

 

 こういうとき、腹はたつけど、「中国の人は偉大だな」と思うのは、「これをきちんとしないと、相手に迷惑かけちゃうかも」という心配をちっともしないことだ。(たぶん「成果をださないと、自分が不利益を被る」、というストレスはあるかもしれないが)

 

 そして、最後に「ほらこれやったから、これでいいでしょ」的な感じで成果物が出てくる。「ご心配おかけしました」とか「ぎりぎりになってしまい申し訳ございません」的な配慮など、あるわけもない。

 勝手といえば勝手なのだが、あながち、まじめに、怒られないように、ちゃんとやるだけが「正解」ではないなと思う。

 

 もちろん、中国は広いので、いろいろな人がいる。「まかせとけ」といって、まったくまかせられないいい加減な人も少なくない。

 また、効率的という点でいえば、どひゃっというほどエラー噴出しまくりの中国式より、着実に進める日本式のほうが「優れて」いるかもしれない。

 ただ、中国的な「勝手力」が生み出すパワーは大きい。

 

 日本人が中国人化したらいいとは、まったく思わないけれど、プレミアムフライデーに、仕事先(お客様)に迷惑かけないよう配慮しながら、がんばってまじめに早退するくらいなら、みんながもう少しだけ「勝手」をやったほうが、働き方の改革にもなるのではないか、と思ったりもする。

| 日中カルチャーギャップ | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
レビュー『炸裂志』閻 連科著、泉 京鹿訳

『炸裂志』のレビューです。

ノーベル文学賞候補に名前が挙がる閻連科さんの大作。中国関係ない方でも『百年の孤独』ファンにはぜひ手に取ってほしいです!

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 マルセル・デュシャンの「泉」のような小説、というとかえってわかりにくいだろうか。でも、この作品を読めば読むほど、そんな気がしてきてならない。
 デュシャンが便器に、「泉」と、ありもしないタイトルを付けた作品は、大いに物議をかもし、その後、美術史の転換点となるエポックメイキング的作品となった。

『炸裂志』は炸裂というありもしない名前の市の市史を、作者の閻連科が引き受けた、というありもしない話から始まる。続いて、作品の要となる女性、朱頴の父親が、村中の人々に痰を吐かれ、その痰におぼれて死ぬ、という荒唐無稽なエピソードが展開する。

 そこで、以前、中国人から聞いた話を思い出す。
 「今の中国で起きている、ありえそうにない不条理で不合理なひどい話の数々は、おそらくすべて本当の出来事だ」という話だ。
もちろん、現実では、痰におぼれて死ぬことはありえないかもしれないが、でもそれと同じくらいひどくてやるせないことが、かつてないほどの勢いで発展し富んだこの巨大な国では起こり得る。

 本書の巻末に収録された「中国の作家から村上春樹への返信」で、筆者は「現在の中国では、どんなことも起こり得る!」と書く。また「同時に心の中ではやるせない苦笑と涙を浮かべている」と述べる。『炸裂志』という作品の「水底」には、そんな筆者の心情が、静かに流れているように思う。

 でも「水面」では、炸裂は、デフォルメされた欲と富と権力にまみれながら、村から鎮へ、さらには直轄市へとのぼりつめる。女たちの出稼ぎ売春で村に家が建ち、妓楼と娯楽エリアで外国投資がもたらされ、人口が増えていくその様は、「泉」と題された便器のようだ。
 と、同時に、人々のあきれるほどのパワフルさと情念と毒気には、奇妙な魅力も感じる。

 物語は、現実と非現実が錯綜し、それらすべてが、今の中国を形づくる「何か」のようでもある。そして、怒涛の如く展開する炸裂の物語に翻弄され、おぼれそうになりながら、最後に浮上したあとは、今の中国をどっぷり体感し、すっかり魂を抜かれた気がした。

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| レビュー | 21:28 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
成功の価値観

 遅ればせながらあけましておめでとうございます!

 本年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

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 年末、テレビの特番を見ながら、日本では経験を積み、蓄積を重ねて、苦労の末に大成するといった成功パターンが好まれるのだなと、改めて思うことがあった。

 アイデア勝負で勝つ!みたいな話でも、その裏には開発に苦労したエピソードがあったりして、なんというか、目先の利益に飛びついて、手軽にぱぱっと成功したらいけないような感じさえする。

 

 一方、中国では、とかくビジネスチャンスに貪欲で、儲け産業には、イナゴの大群のごとく、人が群がる。

 規制があっても、その規制をいかにかいくぐるかを熱心に研究しあい、必ずなんらかの道を見つける。そして「それってグレーじゃないの?」と思うようなことでも、儲けてなんぼでガンガン食い込む。

 

 もちろん、たぐいまれなビジネスセンスと信念を持ち合わせ、偉業を成し遂げる人は尊敬されるけれど、多くの一般庶民はおしなべて単純明快だと感じる。

 そして、そんなお国柄のせいか、いまひとつ成功しないタイプには、やたらとあっちこっちに気移りをして、結局、何も成していない人が多い気がする。

 

 それを、日本的感覚で批評すれば、「ろくに経験もないのに、短絡的に金儲けしようとしたからだ」、というふうになるだろう。

 でも、中国の人と話をしていると、あながち、未経験で短絡的だから失敗したとは考えていない。総じて言えば、「目先のビジネスチャンスを、一気に実現するだけの能力に欠ける」、ということになるだろうか。

 

 そして、この能力には、おそらく人脈をうまく使う能力も含まれる。自分に経験がなければかわりにできる人を、自分に金がなければ、資金を投じてくれる人を、ひっぱってくる能力をうまく活用できることも、成功の秘訣みたいなところがあるからだ。

 

 それにしても、隣国同士で、なぜ、これほどまでに成功の価値観が違うのか。一つには、歴史が関係しているのかもしれない。日本の場合、一般庶民にとって、社会や個人の価値観が180度ひっくりかえるような大転換はそれほど多くなかっただろう。

 

 対する中国は、王朝が変わればすべてがひっくり返るような歴史の中で、価値観も大転換したはずだ。従来、じっくり蓄積することは難しかっただろうと思う。

 

 だからこそ、日本人にとって、「じっくり蓄積」が、成功をもたらす宝であるように、中国の人にとっては、めげないパワフルさと、なんだかんだいってちゃっかりうまくやってしまうしたたかさは、かの国で生き延びるための大事な財産であるのかもしれない。

 

 と、思うのだが、年末、たまたまひょんなことで、中国の人と一緒に仕事をしたときのこと。やたらと目先のもの(と、私には見えるもの)に手を出すそうする相手に、思わず「一歩一歩着実にやりましょうよ」と意見して、今更ながら、自分が日本人以外のものになれそうもないことを実感した。

| 日中カルチャーギャップ | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
年賀状と新千歳空港中国人旅行客騒動で考えるマナー文化

 年賀状は苦行だ、と思う。

 中国にいる間、10年くらい年賀状を出していなかったので、すっかり忘れていたのだが、いまさらながら、年賀状には、日本のお作法文化が凝縮されている。

 

 住所や宛名の書き方、あいさつ文の書き方、目上の人宛てでやってはいけないこと、避けるべき言葉もろもろ。

 

 去年頃から年賀状を再開したものの、10年もブランクあると、すっかりできなくなっていて(というより、もともとちゃんとできてなかったかも)、何度もやりなおしているうちに、日が暮れてしまった。

 

 外国人が日本のマナー文化を体感したければ、一度、礼儀作法をきっちり守った年賀状を100枚くらい出してみたらいいと思う。

 

 マナーといえば、先日、大雪の新千歳空港で足止めをくらった中国人が騒ぎを起こしたという騒動があった。

 中国人のマナーの悪さが取りざたされるとき、いつも思うのは、一口にマナーの悪さといっても、事情はさまざまだろう、ということだ。

 

 海外においては、その国の常識との違いとコミュニケーションの齟齬。

 国内的には、一党独裁と拝金主義がもたらした、勝ちさえすればなんでもありな社会的風潮。

 あるいは人っ子世代特有の身勝手さや、都市と農村の価値観の大いなるギャップ。さらに、しばしば起こりうる、ルールなど守っていてはバカを見るような不合理な状況。

 

 確かに、びっくりするほど勝手な人は一定数いるし、「文明的」でない行為も少なくはない。でも、それで一番、嫌な思いをしているのは中国人自身だ。

 

 それに、ごく普通の一般庶民は、多くの場合、とても忍耐強い、と私は思う。もともと、日本のサービスレベルでは考えられないようなお国柄だ。それに対して、彼らはしばしば高い耐性を発揮する。

 

 例えば、病気を診てもらうにも、列車のチケットを買うのにも、ものすごい人込みの中を、ただただ何時間も待ち続ける。

 中にはずるをして割り込む人もいるし、一人がずるをすると、雪だるま式にどんどんずるをする人が出てきて収集がつかなくなる面はあるけれど、でも、やはり基本はジリジリと並んでいる。

 

 銀行でも、客が何十人も待っているという状況で、昼になると、1〜2つの窓口を残して、他は休憩に入ってしまうことがある。

 はじめて見たときは、えーーーなにこれ!と思ったが、中国人は慣れっこで、ブツブツいいながら待っている人もいれば、あきらめて帰って行く人もいる。

 

 主張を通すときも、いきなりギャーギャー言う人は、感覚的にはそれほど大多数というわけではない。たいていの場合は、けっこう、あの手この手で引いたり押したりして、うまいこと交渉している。

 

 ただ、上述したように、不合理で不条理なことはしばしば起こる。

 渋滞した北京の道路では、 ルールなど守っていては、いつまでたっても先に進めないような状況があり、良識的な人でも、アウト・オブ・ルールのドライバーと化す。

 

 航空会社は、ときどきお上のよくわからない事情でフライトをキャンセルする。そのうえ、晴天でも「天候」を理由にしするものだから、飛行機に乗れなかった人々がブチ切れ、それが重なると、本当に「天候」が理由で飛ばなくても、客は「またか」と猜疑の目を向ける。

 

 社会全般、うまくやったもの勝ちなムードの中、機転の利く人は、ちょっとしたことでも機を見て、さっと、利を得るし、その過程で、日常茶飯事的に、多少のマナー違反やルールの逸脱が起こる。

 逆にそれができないと、バカをみっぱなし、という緊張感や危機感もある。

 

 そう考えると、日本のように、ルールやマナーをしっかり守っても、とりたてて損をすることがなく、なおかつ礼儀作法が文化の領域に達している社会というのは、ある意味、「安定」と「ゆとり」のたまものかもしれない。

 

 と、思って、年に一度の年賀状修行に励むのだが、そつなくこなせるようになるころに、年賀状はすたれていたりして、と思わなくもない。

 

※今年一年も、拙ブログにご訪問いただき、ありがとうございました!

また来年も楽しんでいただければうれしいです。

よいお年をお迎えください!

| 日中カルチャーギャップ | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
友人

 もう10年ほど前、北京大学とならぶ中国最高峰の大学、清華大学の大学院のメディア専攻で1年間だけ聴講生をしたことがある。

 授業料さえ払えばだれでも聴講できるシステムだった。

 

 今以上に、ろくに中国語もわからなかった当時、中国中の超エリートを集めたクラスに通おうというのは、ずいぶん無謀な選択だった。でも、あまりよくわかっていなかった私は、エリート学生の観察を楽しもうくらいな気軽な気分で、通い始めた。

 

 学生たちはとてもスマートで、礼儀正しく、ほどよく親切だった。でもそれは彼らと仲良くなれる、ということでは全くなく、私は、ただ、クラスのはじっこに座っているだけの、あまり意思疎通がとれない年の離れたガイジンだった。

 

 その中で一人、学部時代は外大の日本語学科だったという女子学生がいて、彼女は熱心に私の面倒を見てくれた。今思えば、面倒をみるように、教授から言われていたのかもしれない。

 とても優秀で真面目な学級員タイプで、でも、清華出身の他の学生のようにいかにもエリートという風でもない。バリバリの共産党員かと思えば、ずいぶんリベラルなところもあった。

 

 中国もいろいろだなと思うきっかけになった一人でもあり、不思議と何か近いものを感じて仲良くなった。

 

 彼女が卒業して故郷で就職したあと、一度、遊びにいったこともある。

 そのころ、彼女は中国で数本の指に入る巨大国営メディアグループの中枢部で、幹部候補生として、忙しく働いていた。

 

 その後、結婚し、出産したという便りをもらったが、地方都市とはいえ、共産党の宣伝組織のど真ん中にいる彼女に、学生のノリで連絡は取りづらく、なんとなくそのまま関係はフェイドアウトした。

 

 と、思ったのだが、先日、数年ぶりに、彼女から突然、連絡があった。

 2年前に独立して友達と会社を立ち上げたといった近況のあと、おもむろに、以前の職場であるメディアグループ傘下の出版社が、日本で翻訳本を出版する先を探していると話し始めた。費用は地方政府持ちだという。

 

 最近、こういう話をちょくちょく聞く。

 中国政府は、自国PRの一環として、伝統文化などのジャンルの本を海外で出版することを奨励していて、対象となった図書は補助金が下りるのだ。

 

 それで、日本の出版社を紹介してほしいという話なのだが、よく聞いたところ、「政府が全部持つ!」というわりに、先方の条件は「それで出版できたら錬金術だよ!」というくらいの無茶ぶりなのである。

 

 中国からの依頼は、往々にして、日本では考えにくいくらい、どひゃっというほどぶっとんだ話が少なくない。

 それで、早々にお断りしたものの、ずいぶん熱心にくどいてくる。

 

 実は、一度、とある日本の出版社に話をしたそうなのだが、返事がかえってこなかったそうだ。確かにあの条件では返事のしようもないだろう。

 それでも、どうにかもう一度、話をつないでくれないかとか、社長に直接話をしたいので、連絡先を教えてほしいと繰り返す。

 

 彼女だって、頼まれただけで、自分の仕事でもないのに、ここまで熱心だということは、仲介手数料目当てなのだろうか。

 どうせ、政府の金なのだから、できるだけ関係する仲間を増やし、みんなで儲けようというのは、中国の常だ。

 

 学生時代の彼女はけしてそんなことをするような人ではなかったけれど、国営メディアの中枢という利権渦巻く中に、10年近くも身を置けば、自然に染まってしまうものなのかもしれない。

 

 以前、中国の年配者から、「清官になると理想に燃えても、結局、社会のシステムとして、賄賂を受け取らざるを得ない」という話を聞いたことがある。そのとき、「いつも川辺にいれば、濡れない靴はない」ということわざを聞いた。

 

 彼女の靴も濡れてしまったかと、少々、残念に思いつつ、一応、参考までに、日本での一般的な自費出版の条件をざっくりまとめて送り、できれば、これをもとに、もう一度、誠意をもって先方に連絡を入れてはどうか、と提案した。

 

 すると、「奈美はやっぱり誠実な人、そういう友達をもって光栄に思う!」と返ってきた。

 おもわず「仲介手数料目当てじゃないかったの?!」と聞くと、「違うよ!」とのこと。

 世話になった出版社の社長からの頼み事なので、どうにか力になりたかったのだそうだ。

 

 結局、彼女は、昔のままだった。

 疑って悪かったと思いつつ、バブルでイケイケで、儲けてなんぼの目まぐるしいかの国で、あいかわらず真面目で実直なまま変わらない存在があることに、ちょっと畏敬の念を感じてしまった。

| 中国小景 | 19:20 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
「こうあるべき」という病巣〜まとめサイト問題に思うこと

 このところ、世間を騒がせているDeNA傘下の療情報サイト「WELQ」に関するニュースを見ていて、ふと疑問に思ったのは、明らかに素人が書いたであろう無料の医療情報に信ぴょう性がなく、コピペ記事であることが、どうしてこれだけ問題になるのだろうか、ということだった。

 

 中国でもこうしたなんちゃって医療情報記事はとてつもなく多い。だいたい、あやしげな医療広告とセットになっていて、それにはまる人も少なくない。

 中国人は、日本人以上にネット情報に対して注意深いものの、手口はどんどん巧妙になっていくし、教育レベルの問題もあって、やはり騙される人は後を絶たない。

 

 今回の騒動は、DeNAのように上場までしている大手企業がこんな信頼性を損なうことをしていかがなものか、というのは、当然あるだろうとは思う。

 これが無名のよくわからない企業がやっていることであれば、ここまで騒動にならなかったかもしれない。

 

 ただそれだけでなく、日本の社会はどこか、「あるべき姿勢」というものを前提にしているところがあると感じる。

 公開する情報は正しくて当たり前、大企業は責任ある行為を行って当たり前、さらには人をだまさなくて当然だ、みたいな空気を感じる。

 

 これは、日本社会ではまだ、性善説が健在な証であるとも思う。

 例えば、ホテルは、客が3カ月前に予約し、支払をすませていなくても、ちゃんと当日まで部屋をキープしておいてくれる。こんなこと、中国ではまずありえない。

 

 病院では会計は一番最後、しかも払わず逃げ放題なシステムだけれど、患者はおおむねちゃんと支払うだろうし、病院も支払うことが前提ですべてが行われる。

 

 ちなみに中国の病院は、すべて先払いだ。まず、診察料に相当する金を払って、診察の順番カードを取得し、診察を受ける。そこで、検査をすることになったら、まず会計窓口に行き、支払いをしてから、その領収書を持って検査を受ける。

 このため、病人は診察室と会計窓口(しかも検査の内容によって支払い場所が異なる)と検査室を、大量の病人(と付き添い人)にもみくちゃにされながら往復しなければならない。でも日本では、そんなことはありえない。

 

 基本的に性善説で、信頼を前提に話が進む日本は、なんてすばらしいんだろうと思う。

 でも同時に、悪意や狡猾さに対して、免疫が低いのではないかと思うこともある。

 

 世の中は、残念ながら、わりと欺瞞に満ちていると感じる。

 例えば、スーパーやドラッグストアに行くと、いまやノンシリコンシャンプーが溢れていて、ネットには、髪にとってシリコンは悪、みたいな情報が溢れている。

 

 でも、長い付き合いの美容師さんは、ノンシリコンシャンプーをあまり勧めない。別によくもなければ悪くもないという感じだ。髪質にもよるので、ノンシリコンで髪がキシキシになり、櫛にひっかかって抜け毛が増えるようなシャンプーは、逆によくないのではないかと話す。

 

 実は、ノンシリコンが流行り始めたころ、棚に並んだ各種のノンシリコンシャンプーは、みな同じメーカーの製品で、それも10名に満たない会社がやっているという話だった。

 ネットで調べれば、ノンシリコンシャンプーの火付け役メーカーの名前も出てくるが、それもあくまでネット情報なので、どこまで本当かはわからない。

 

 一億総中流社会はとっくに過去のものとなり、グローバリゼーションの波も押し寄せて、日本社会もうかうかしていてはどん底に落ちかねないような雰囲気が漂う。

 いろいろとじり貧になっていく中、ズルして勝ち抜こうという人は当然増えるだろう。

 

 そうでなくても、くだんのネット記事についていえば、4000字でせいぜい1万円程度なんて、あきらかに安すぎる原稿を依頼する側としては、「できるだけ手間をかけずに、書いてください」とお願いせざるをえない。

 

 私もそうお願いするし、されたことも何度もある。

 その過程で、「××を参考にして、ちゃちゃっとお願い」と言われることもあれば、それが進めば「××と××をコピペして、著作権にひっかからないように表現を変えて」などという依頼が来るのは痛いほどよくわかる。しかもこんな安い記事に校閲などつくわけもない。

 

 私は幸い、そういうコピペ仕事を受けることはなかったけれど、要は、末端レベルでは、悪意すらなく、逆にただ、依頼する側とされる側の「善意」で、なんちゃって記事が生まれることもありうるということだ。

 

 そんな中、「正しくあるべき」という前提とそうした物事の見方は、問題解決にはつながらない。

 「あるべき」は到底無理な状況で、ではどうしたらいいのか、という問いかけが必要ではないかと考えるのである。

| 東京&中国以外 | 13:15 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
中国でものごとを進めるために必要なこと(たぶん)

 中国では本当にぎりぎりの直前まで決まらないことが、わりとよくある。

 はやく決めたところで、直前でどんでん返しされることも日常茶飯事なので、結局、ぎりぎりまで決まらないことにはかわらない。

 

 仕事でもプライベートでも同様で、たとえば一カ月前に、北京の友達に「××日に行くよ!」といっても、「おーいらっしゃい!」で話は終わる。

 で、1週間前に「××日に行くけど、会えそう?」と聞くと、「没問題!」というくせに、前日もしくは当日まで、何時にどこで会うといったことは決まらないし、前日に連絡すると、「あ、ごめん、明日だめだ!」と言われることも普通にある。

 

 いろいろなことがゆるゆると流動的に運んでいき、優先順位もそのときの状況でゆるゆると変化する。

 

 きっちり一つずつものごとを進めていく日本流とはおそろしく相性が悪いが、今は逆に、中国流にもだいぶ慣れてしまって、日本で、1カ月先の約束のことを言われると、ちょっとひるむ。

 なるべく守るようにしているけれど、直前でごめんなさいをすることもあるので、あまり中国人のことは言えない。

 

 それでもやはり、日中間の仕事で、中国側が本当に直前まで決まらないと、胃がきりきりとしてくるのは、日本人の性だと思う。

 

 先日も、そんな渦中で、これがだめなら次このパターン、それがだめならさらに次はこうしようと、あれこれ先手を打とうとしていたら、一緒にいた中国人が一言、「田中さんまじめねえ」。

 

 かちんときて、「私がまじめなんじゃなくて、あなたがアバウトなんでしょ!」とか、「請け負った仕事は、責任もって果たそうよ!!」と心の中で呟いてしまったのだが、思えば、日本人的な真面目さが、必ずしも中国での現状を打破できるとはかぎらない。

 というより、それが空回りして、足かせになることもある。

 

 それでふと、(だいぶ余談になるが)、中国武術のことを思った。

 中国武術で、鬆緊(ソンジン)という考え方がある。直訳すると、鬆(ゆるんでいる状態)と緊(緊張している状態)のことで、かなり乱暴に表現すれば、筋(筋肉ではない)の鬆緊が力量を生むという考え、といえるだろうか。

 

 ただ、ゆるむといってもゆるゆるではなく、緊張しているといってもがちがちではなく、ちょうどよくゆるんでちょうよく張る中庸な状態がよしとされるが、これにぴったりの日本語がない。

 そして私はその「ちょうどいい」がいまだによくわからない。

 

 ただ、中国では、そういう中庸ななかでものごとをとらえることが、パワーの発揮につながるようなところがあるように思う。

 一方、日本人としては、きっちりした型のなかでしっかりそれをこなしていくほうが、やりやすいだろう。

 

 型といえば、以前、ある中国武術の「套路(とうろ)」(日本の武道でいうところの型)を、日本の生徒さんの教材用にビデオを撮ろうとしたら、中国の先生のそれは、毎回、ちょっとずつ内容が違っていて、日本の先生が困っておられたことがあった。

 でも、中国の先生いわく、「套路なんてそんなもん」。

 

 アバウトといえばアバウトなのだが、そのアバウトさにも得るものがあるのが、中国武術の醍醐味だと思う。

 

 結局、物事の進め方でも、鬆(ソン)でもなく、緊(ジン)でもなく、なんとなくゆるゆるっとやっていくところに、コツがある気がする。

 臨機応変といえばそうかもしれないが、ただ、目の前の事象に反射的に対応するというより、もともと中庸なのでどちらにふれても、どっちもいける、みたいなイメージだ。

 

 なお、くだんの案件は、最終的には、ぎりぎりでどうにかなった。

 だいたいいつもそうやって、ぎりぎりでどうにかはなる。

 

 だから、いままでは、なんとかしてどうにかいかせなくては!と緊張していたのだけれど、もう少しズルズルでもいったほうがうまくいくのかもしれない。

 と思いつつも、最後にどうにもならなくなることも、たまにないわけではない。

 やはり、「ちょうどいい加減」は、いまひとつ見つけられないままでいる。

| 日中カルチャーギャップ | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
安倍・トランプ会談を故事成語で表現してみると

 北京の新聞「新京報」を見ていたら、新華社電の安倍・トランプ会談を報じる記事に、「意在‘亡羊補牢’(意は‘羊を亡(うしな)いて牢を補う’にあり)というタイトルがついていた。

 

 亡羊補牢は『戦国策』という前漢末に編纂された名言満載の書に出てくる故事成語。

 日本語でも使われていて、羊が逃げたあとで、柵を修繕する、すなわち心配を繰り返さないよう、事後に補強すること、失敗しても挽回可能といった意味になる。

 

 中国のインテリ新聞や雑誌では、記事タイトルに、なかなか絶妙な故事成語を使っていることがある。これぞ、漢字文化の醍醐味というところだろうか。

 

 ちなみに、記事の内容は、日本でも報じられている会談にいたるまでの背景と、会談後の安倍首相やトランプ氏の反応。さらにTPPや在日米軍問題に関して、トランプ氏の選挙活動中の過激発言は、実務方向へ修正がかかりそうだとしながらも、今後の不透明とする解説。

 

 最後に、「注意すべきことは〜」として、「日本の国内の一部には、トランプ氏の当選を一種の戦略チャンスとみている勢力がある」と続き、「右翼メディアである「産経新聞」の数日前のコラムによれば、もし米軍が撤退すれば、日本は自国の防衛能力を強化しさえすれば、空母の建設を含め、経済と軍事上でアメリカに深刻に依存しない「偉大な国家」になる」とのこと。

 

 日本から見ると、ずいぶん、ファンタスティックな内容にも思えるが、中国のネットには、上記と同じ記事が、複数のメディアに転載されている。

 新華社電の記事なので、上からこういう記事を配信せよというお達しがあるのかもしれない。以前から、こんな論調の記事はちょくちょく掲載されてきた。

 

 日本のメディアも他国メディアの事を言える立場ではないかもしれないけれど、メディアを通じて作られる認識のギャップに、少々、複雑な気持ちになる。

 

「安倍特朗普 意在“亡羊牢”

http://epaper.bjnews.com.cn/html/2016-11/19/content_660671.htm?div=-1

| 中国メディア産業 | 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP