中国在住10年を経て帰国。
中国、という日本とは違った視点で、
日本をあれこれ考えてみる、
日中文化考ブログ by 田中奈美
中国版火サス

 日本で昼間、テレビをつけていると、かつて量産されたサスペンスドラマの再放送があっちこっちのチャネルで放映されていて、いまさらながら、日本はお茶の間サスペンスの一大算出国だなと思う。

 

 ひるがえって、中国では、日本ほどサスペンスドラマを見ることがない。

 加えて、中国サスペンスといえば、抗日ドラマか歴史サスペンスのイメージが強い。

 

 記憶をたどると、以前、中国で、人気を博した刑事ドラマがあった。しかしその人気の高さゆえ、手口をまねた犯罪がおきるとよろしからぬ、というお達しが出て、一時、サスペンスドラマがぱたっとなくなり、かわって登場したのが抗日サスペンスである。

 

 抗日ドラマは当局の検閲を通りやすい、歴史ものも現代でないからオッケー、くわえてサスペンスものはけっこう人気、ということで、これらの掛け合わせが誕生したのではなかったかと思うが、正確なところはわからない。

 

 いずれにしても、中国サスペンス=抗日サスペンスまたは歴史サスペンスのような印象があったのだが、先日、北京でテレビをつけていたら、列車もののサスペンスを放映していた。

 「U57案」という、どうやら10年ほど前に放映された映画の再放送であったらしい。

 

 北京発深セン行のU57号列車内でおきた連続殺人事件の謎に鉄道警察の隊長と新人コンビが迫るという内容で、最後に新人警官が犯人を前に謎解きをしてみせ、犯人が「俺がやったんだ!」と自白するくだりは、まさに火サスか土曜ワイドといったところ。

 おもわず、おお!と身を乗り出してしまった。

 

 ところが、日本の火サス(もしくは土曜ワイド)と何か違う。

 何が違うんだろうと考えると、それは「正義の質」かもしれない。

 

 犯人を問いただす正義のチープさは日本も中国もさほどかわりないのだが、日本のそれが、どちらかというと個人の正義である。国家に忠実!みたいなタイプが主人公をバリバリこなすことはまずないだろう。どちらかというとアウトローっぽいタイプや、ごくふつーの主婦のような一般庶民が多いかもしれない。

 

 対する中国版火サスの正義には、なんというか、国家権力のかぐわしさがある。

 つまり、主人公は懐が深くて、人情味にあふれていたり、ちょっと破天荒だったりするけれど、あくまでも党に忠実、みたいな、そういうタイプである。

 今の中国で、党にたてつく主人公はありえない。

 

 ということで、ところ変われば正義も変わる中国版火サス。

 が、その後、火サスみたいなドラマが中国でじゃんじゃんつくられた、という話を聞かない。

 それは検閲を通りにくいから、というより、日本のお茶の間サスペンス風のお約束感が、あまり中国の人のハートには響かないからではないか、と思う。

 

中国版火サス「U57次谜案」

http://www.iqiyi.com/lib/m_205098214.html

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画一さと私のパンツ(ズボン)

 私は普段、あまり服を買わない。中国から戻ってきて3年、北京で買った服をまだ着ていたのだが、さすがに周りの眼が気になるようになってきた。

 

 それで、先日、仕事で使う服を何着か買いに行った。ストレートかブーツカット(今どき風にいえばフレアラインか?)のパンツを買いたかったものの、困ったことに、おしなべて、スキニーっぽく、ぴったり系で裾がしぼられているものか、ガウチョのような幅広のものかしか見つからない。

 ずんぐりむっくりな私の体型では、どちらも少々ハードルが高い。

 

 私は服のことはよくわからないので、最初は探し方が悪いのかと思った。けれど、ブランドショップでもファストファッションの店でも、おしなべてスキニーまたはガウチョ、ということは、おそらく日本のファッション業界では、ストレートもブーツカットも「ダサいもの」として、ほとんど淘汰されてしまったのではないだろうか。

 

 これを流行に敏感というべきか、あるいは画一的というべきかはわからない。でも、日本にいると、どうも、自然に「足並みが揃う」みたいなところがあると感じる。

 

 たとえば、パクチーが流行ると、食品メーカー各社はパクチー味の商品を開発する。しかもだいたいどれもちゃんと開発されていて、大きくはずれるということはそれほどない。

 

 またテレビでは、各チャネルがほとんど同じタイミングでCMに切り替わる、あるいは同じ時期に番組が入れ替わる。

 制作サイドの事情があるのだろうが、それにしても、一つの連ドラが終わり、いろいろ特番が放映されて、また次の連ドラがはじまるというサイクルが、毎シーズン、粛々と繰り返されていくのを見ていると、少々不思議な気がする。

 

 思えば、中国は、いろいろなことが、てんでバラバラだ。

 国が大きすぎ、人が多すぎで、かつ貧富の差も大きいため、画一的になることなど到底無理かもしれない。あるいは、そもそも、足並みをそろえるという発想もないだろう。

 

 ファッションの流行り廃りはそれほど明確ではなく、お金を持っている人たちにとって、流行とは個性とステイタスを発揮するために取り入れるものであるようだ。

 

 ただ、儲けになる商売には、人が群がるので、例えば、以前、中国の伝統服、旗袍(チャイナドレス)を現代風にアレンジしたファッションが話題になったときには、旗袍風ブティックが雨後の筍のように出現した。

 

 もっともそれで、街中の女性たちがみな、旗袍アイテムを取り入れる、といったことはなく、店も微妙な方向でオリジナリティを発揮したものから、センスよくまとまったもの、あるいは粗悪なコピーものまで、実に千差万別だった。

 

 千差万別といえば、先日、北京に行ったときのこと。

 マクドナルドに入ると、店内に設置されたパネルで注文できるようになっていて、次々とやってくるカップルや家族連れが、スマホをピッとかざし、支払いを済ませていた。

 また、町にはスマホを活用したシェアバイクがすっかり定着し、スマホ決済はすでに社会インフラになっているようだった。

 

 でも、その一方で、下町の胡同を歩くと、出稼ぎ労働者たちが小さな店をつらねる一角がある。オンボロ食堂の前の道端には、椅子とテーブルが置かれ、日焼け顔の中年男性が山盛りの麺をすすっている。そして食べ終わると、ポケットからしわくちゃの10元札を出し、テーブルに置いていく。

 

 地下鉄に乗れば、大きな荷物をかかえてドア前をふさいでいる労働者と、高そうなブランド服の女性が同じ車両に乗り、その間を物乞いが「お願いします」と手を差し出しながら歩いていく。

 

 こういうところにいると、どんな服を着ていてもどんなかっこうをしていても、あまり目立つということがない。

 この多様さは、やはり中国の醍醐味だと思う。

 

 もっとも、それも一長一短で、千差万別すぎて、思いもよらないことが連発し、疲労困憊することも日常茶飯事だ。そういうときは、日本の画一さがもたらす安心と安定のありがたみを実感する。

 どちらがいいとか悪いとかではなく、ほとほどが一番と思うものの、そのほどほどがまた難しい。

 

 そしてくだんのパンツは結局、お店の人が勧めるままに、ガウチョとスキニーを購入。ついでに、お店の人が勧める「体型が目立たないようになる」ロングのカーディガン(コーディガンというやつかも)と、ふんわりしたブラウスもお買い上げ。

 

 見た目はそれなりに流行風かつ平均的な感じで、そのまま、丸の内のオフィスにも行けそうだ。ついでに仕事帰りは、ちょっとおしゃれなレストランで、女子会なんかもできてしまうかもしれない。

 

 おかげで、周りから浮いているかも?と思うことはなくなった。でも、それはそれで、どこかしっくりこなかったりもする。

 

<<お知らせ>>

 渡部恒雄 (米シンクタンク「戦略国際問題研究所(CSIS)」非常勤研究員、「笹川平和財団」特任研究員)
「米国政治ウォッチャーが語る、トランプ政権のキーパーソンから見たアメリカの行方」の記事を担当しました。

 お話自体は少し前なのですが、トランプ政権を知る上で、非常に示唆に富んだお話しでした。米国政治はさっぱりの私でも、見るべきポイント、知るべき点の基本がとてもわかりやすかったです。
 今、話題の北朝鮮についても、よくわかります。

 トランプ政権ニュース、なんだかわかるようでわからないな、という方、ぜひご一読を!

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プレミアムフライデーと日本人の「まじめ力」と中国人の「勝手力」

 プレミアムフライデーのニュースをみていて、ふと思った。

 プレミアムフライデーに、真面目に3時退社していては、たぶん、日本人の働き方は変わらないのではないかと。

 

 私のまわりには、大企業勤めの人が極端に少なく、プレミアムフライデーに3時退社したという人はいないし、そういう話も聞かないので、じっさい、どれくらいの人がプレミアムフライデーを楽しんだのか、実感としてわからない。

 

 けれど、テレビのニュースで、ちゃんと早く帰ってお買い物したり、イベントを楽しんだり、「これから温泉行ってきます」などといって、盛り上がっている(あるいは盛り上がろうとしている)人々の様子を見ていると、あらためて、日本人はまじめだなあと感じた。

 

 これが中国の場合であれば、と考えてみる。

 おかみが「いっせいに3時早退しましょう〜」と言っても、現実問題として、そんなゆとり社会ではないから、役所や一部の大手企業は同調したふりはするかもしれないけれど、一般庶民は「どうせ、下々のことはよくご存じないおかみのたわごと」としてスルーするのではないだろうか。(休んだら金もらえる、というのであれば、喜んで休むだろうけれど)

 

 でも、日本人は(一部かもしれないけれど)、ちゃんと仕事をやりくりして3時退社していて、しかもあながち「やらせ映像」ではなさそうだ。

 それらを見ていると、日本人が働きすぎなのは、こんな風に早く帰る日を決めて、みんなでいっせいに休みましょう的なまじめさに起因しているのではないか、と思ってしまった。

 

 日本で仕事をしていると、日本人のやり方は本当にきめ細やかだと思う。一つ一つ、着実に進めて、ミスはあまりないし、逆にミスをしたらすごい怒られる。

 一方、中国の人と仕事をしていると、過程の段階では、ミスは多いし、いいかげんだし、最終形態が見えないし、もう、それはそれは、胃に穴があくほどやきもきする。

 でも、最終段階でいきなり、どーんっとものすごい力を発揮して、意外にもなんとかなってしまう。(ことが、少なくない)

 

 こういうとき、腹はたつけど、「中国の人は偉大だな」と思うのは、「これをきちんとしないと、相手に迷惑かけちゃうかも」という心配をちっともしないことだ。(たぶん「成果をださないと、自分が不利益を被る」、というストレスはあるかもしれないが)

 

 そして、最後に「ほらこれやったから、これでいいでしょ」的な感じで成果物が出てくる。「ご心配おかけしました」とか「ぎりぎりになってしまい申し訳ございません」的な配慮など、あるわけもない。

 勝手といえば勝手なのだが、あながち、まじめに、怒られないように、ちゃんとやるだけが「正解」ではないなと思う。

 

 もちろん、中国は広いので、いろいろな人がいる。「まかせとけ」といって、まったくまかせられないいい加減な人も少なくない。

 また、効率的という点でいえば、どひゃっというほどエラー噴出しまくりの中国式より、着実に進める日本式のほうが「優れて」いるかもしれない。

 ただ、中国的な「勝手力」が生み出すパワーは大きい。

 

 日本人が中国人化したらいいとは、まったく思わないけれど、プレミアムフライデーに、仕事先(お客様)に迷惑かけないよう配慮しながら、がんばってまじめに早退するくらいなら、みんながもう少しだけ「勝手」をやったほうが、働き方の改革にもなるのではないか、と思ったりもする。

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成功の価値観

 遅ればせながらあけましておめでとうございます!

 本年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

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 年末、テレビの特番を見ながら、日本では経験を積み、蓄積を重ねて、苦労の末に大成するといった成功パターンが好まれるのだなと、改めて思うことがあった。

 アイデア勝負で勝つ!みたいな話でも、その裏には開発に苦労したエピソードがあったりして、なんというか、目先の利益に飛びついて、手軽にぱぱっと成功したらいけないような感じさえする。

 

 一方、中国では、とかくビジネスチャンスに貪欲で、儲け産業には、イナゴの大群のごとく、人が群がる。

 規制があっても、その規制をいかにかいくぐるかを熱心に研究しあい、必ずなんらかの道を見つける。そして「それってグレーじゃないの?」と思うようなことでも、儲けてなんぼでガンガン食い込む。

 

 もちろん、たぐいまれなビジネスセンスと信念を持ち合わせ、偉業を成し遂げる人は尊敬されるけれど、多くの一般庶民はおしなべて単純明快だと感じる。

 そして、そんなお国柄のせいか、いまひとつ成功しないタイプには、やたらとあっちこっちに気移りをして、結局、何も成していない人が多い気がする。

 

 それを、日本的感覚で批評すれば、「ろくに経験もないのに、短絡的に金儲けしようとしたからだ」、というふうになるだろう。

 でも、中国の人と話をしていると、あながち、未経験で短絡的だから失敗したとは考えていない。総じて言えば、「目先のビジネスチャンスを、一気に実現するだけの能力に欠ける」、ということになるだろうか。

 

 そして、この能力には、おそらく人脈をうまく使う能力も含まれる。自分に経験がなければかわりにできる人を、自分に金がなければ、資金を投じてくれる人を、ひっぱってくる能力をうまく活用できることも、成功の秘訣みたいなところがあるからだ。

 

 それにしても、隣国同士で、なぜ、これほどまでに成功の価値観が違うのか。一つには、歴史が関係しているのかもしれない。日本の場合、一般庶民にとって、社会や個人の価値観が180度ひっくりかえるような大転換はそれほど多くなかっただろう。

 

 対する中国は、王朝が変わればすべてがひっくり返るような歴史の中で、価値観も大転換したはずだ。従来、じっくり蓄積することは難しかっただろうと思う。

 

 だからこそ、日本人にとって、「じっくり蓄積」が、成功をもたらす宝であるように、中国の人にとっては、めげないパワフルさと、なんだかんだいってちゃっかりうまくやってしまうしたたかさは、かの国で生き延びるための大事な財産であるのかもしれない。

 

 と、思うのだが、年末、たまたまひょんなことで、中国の人と一緒に仕事をしたときのこと。やたらと目先のもの(と、私には見えるもの)に手を出すそうする相手に、思わず「一歩一歩着実にやりましょうよ」と意見して、今更ながら、自分が日本人以外のものになれそうもないことを実感した。

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年賀状と新千歳空港中国人旅行客騒動で考えるマナー文化

 年賀状は苦行だ、と思う。

 中国にいる間、10年くらい年賀状を出していなかったので、すっかり忘れていたのだが、いまさらながら、年賀状には、日本のお作法文化が凝縮されている。

 

 住所や宛名の書き方、あいさつ文の書き方、目上の人宛てでやってはいけないこと、避けるべき言葉もろもろ。

 

 去年頃から年賀状を再開したものの、10年もブランクあると、すっかりできなくなっていて(というより、もともとちゃんとできてなかったかも)、何度もやりなおしているうちに、日が暮れてしまった。

 

 外国人が日本のマナー文化を体感したければ、一度、礼儀作法をきっちり守った年賀状を100枚くらい出してみたらいいと思う。

 

 マナーといえば、先日、大雪の新千歳空港で足止めをくらった中国人が騒ぎを起こしたという騒動があった。

 中国人のマナーの悪さが取りざたされるとき、いつも思うのは、一口にマナーの悪さといっても、事情はさまざまだろう、ということだ。

 

 海外においては、その国の常識との違いとコミュニケーションの齟齬。

 国内的には、一党独裁と拝金主義がもたらした、勝ちさえすればなんでもありな社会的風潮。

 あるいは人っ子世代特有の身勝手さや、都市と農村の価値観の大いなるギャップ。さらに、しばしば起こりうる、ルールなど守っていてはバカを見るような不合理な状況。

 

 確かに、びっくりするほど勝手な人は一定数いるし、「文明的」でない行為も少なくはない。でも、それで一番、嫌な思いをしているのは中国人自身だ。

 

 それに、ごく普通の一般庶民は、多くの場合、とても忍耐強い、と私は思う。もともと、日本のサービスレベルでは考えられないようなお国柄だ。それに対して、彼らはしばしば高い耐性を発揮する。

 

 例えば、病気を診てもらうにも、列車のチケットを買うのにも、ものすごい人込みの中を、ただただ何時間も待ち続ける。

 中にはずるをして割り込む人もいるし、一人がずるをすると、雪だるま式にどんどんずるをする人が出てきて収集がつかなくなる面はあるけれど、でも、やはり基本はジリジリと並んでいる。

 

 銀行でも、客が何十人も待っているという状況で、昼になると、1〜2つの窓口を残して、他は休憩に入ってしまうことがある。

 はじめて見たときは、えーーーなにこれ!と思ったが、中国人は慣れっこで、ブツブツいいながら待っている人もいれば、あきらめて帰って行く人もいる。

 

 主張を通すときも、いきなりギャーギャー言う人は、感覚的にはそれほど大多数というわけではない。たいていの場合は、けっこう、あの手この手で引いたり押したりして、うまいこと交渉している。

 

 ただ、上述したように、不合理で不条理なことはしばしば起こる。

 渋滞した北京の道路では、 ルールなど守っていては、いつまでたっても先に進めないような状況があり、良識的な人でも、アウト・オブ・ルールのドライバーと化す。

 

 航空会社は、ときどきお上のよくわからない事情でフライトをキャンセルする。そのうえ、晴天でも「天候」を理由にしするものだから、飛行機に乗れなかった人々がブチ切れ、それが重なると、本当に「天候」が理由で飛ばなくても、客は「またか」と猜疑の目を向ける。

 

 社会全般、うまくやったもの勝ちなムードの中、機転の利く人は、ちょっとしたことでも機を見て、さっと、利を得るし、その過程で、日常茶飯事的に、多少のマナー違反やルールの逸脱が起こる。

 逆にそれができないと、バカをみっぱなし、という緊張感や危機感もある。

 

 そう考えると、日本のように、ルールやマナーをしっかり守っても、とりたてて損をすることがなく、なおかつ礼儀作法が文化の領域に達している社会というのは、ある意味、「安定」と「ゆとり」のたまものかもしれない。

 

 と、思って、年に一度の年賀状修行に励むのだが、そつなくこなせるようになるころに、年賀状はすたれていたりして、と思わなくもない。

 

※今年一年も、拙ブログにご訪問いただき、ありがとうございました!

また来年も楽しんでいただければうれしいです。

よいお年をお迎えください!

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中国でものごとを進めるために必要なこと(たぶん)

 中国では本当にぎりぎりの直前まで決まらないことが、わりとよくある。

 はやく決めたところで、直前でどんでん返しされることも日常茶飯事なので、結局、ぎりぎりまで決まらないことにはかわらない。

 

 仕事でもプライベートでも同様で、たとえば一カ月前に、北京の友達に「××日に行くよ!」といっても、「おーいらっしゃい!」で話は終わる。

 で、1週間前に「××日に行くけど、会えそう?」と聞くと、「没問題!」というくせに、前日もしくは当日まで、何時にどこで会うといったことは決まらないし、前日に連絡すると、「あ、ごめん、明日だめだ!」と言われることも普通にある。

 

 いろいろなことがゆるゆると流動的に運んでいき、優先順位もそのときの状況でゆるゆると変化する。

 

 きっちり一つずつものごとを進めていく日本流とはおそろしく相性が悪いが、今は逆に、中国流にもだいぶ慣れてしまって、日本で、1カ月先の約束のことを言われると、ちょっとひるむ。

 なるべく守るようにしているけれど、直前でごめんなさいをすることもあるので、あまり中国人のことは言えない。

 

 それでもやはり、日中間の仕事で、中国側が本当に直前まで決まらないと、胃がきりきりとしてくるのは、日本人の性だと思う。

 

 先日も、そんな渦中で、これがだめなら次このパターン、それがだめならさらに次はこうしようと、あれこれ先手を打とうとしていたら、一緒にいた中国人が一言、「田中さんまじめねえ」。

 

 かちんときて、「私がまじめなんじゃなくて、あなたがアバウトなんでしょ!」とか、「請け負った仕事は、責任もって果たそうよ!!」と心の中で呟いてしまったのだが、思えば、日本人的な真面目さが、必ずしも中国での現状を打破できるとはかぎらない。

 というより、それが空回りして、足かせになることもある。

 

 それでふと、(だいぶ余談になるが)、中国武術のことを思った。

 中国武術で、鬆緊(ソンジン)という考え方がある。直訳すると、鬆(ゆるんでいる状態)と緊(緊張している状態)のことで、かなり乱暴に表現すれば、筋(筋肉ではない)の鬆緊が力量を生むという考え、といえるだろうか。

 

 ただ、ゆるむといってもゆるゆるではなく、緊張しているといってもがちがちではなく、ちょうどよくゆるんでちょうよく張る中庸な状態がよしとされるが、これにぴったりの日本語がない。

 そして私はその「ちょうどいい」がいまだによくわからない。

 

 ただ、中国では、そういう中庸ななかでものごとをとらえることが、パワーの発揮につながるようなところがあるように思う。

 一方、日本人としては、きっちりした型のなかでしっかりそれをこなしていくほうが、やりやすいだろう。

 

 型といえば、以前、ある中国武術の「套路(とうろ)」(日本の武道でいうところの型)を、日本の生徒さんの教材用にビデオを撮ろうとしたら、中国の先生のそれは、毎回、ちょっとずつ内容が違っていて、日本の先生が困っておられたことがあった。

 でも、中国の先生いわく、「套路なんてそんなもん」。

 

 アバウトといえばアバウトなのだが、そのアバウトさにも得るものがあるのが、中国武術の醍醐味だと思う。

 

 結局、物事の進め方でも、鬆(ソン)でもなく、緊(ジン)でもなく、なんとなくゆるゆるっとやっていくところに、コツがある気がする。

 臨機応変といえばそうかもしれないが、ただ、目の前の事象に反射的に対応するというより、もともと中庸なのでどちらにふれても、どっちもいける、みたいなイメージだ。

 

 なお、くだんの案件は、最終的には、ぎりぎりでどうにかなった。

 だいたいいつもそうやって、ぎりぎりでどうにかはなる。

 

 だから、いままでは、なんとかしてどうにかいかせなくては!と緊張していたのだけれど、もう少しズルズルでもいったほうがうまくいくのかもしれない。

 と思いつつも、最後にどうにもならなくなることも、たまにないわけではない。

 やはり、「ちょうどいい加減」は、いまひとつ見つけられないままでいる。

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子供が一人でいる光景で思うこと

 夕方、東京で地下鉄に乗っていたら。有名小学校らしい制服を着た10歳くらいの男の子が一人で、前の座席に座っていた。

 乗り慣れた感じなので、いつもの下校途中なのだろう。

 

 その帰り道、公園の前を通りかかると、やはり小学校高学年くらいの男の子たちが、親の付き添いなく、元気に走り回っているのを見かけた。

 

 日本ではどちらも日常の光景だと思うが、北京では見たことがない。

 なぜなら、子供の誘拐事件が多発しているからだ。

 

 先日、北京に行ったとき、10年来の友人からこんな話を聞いた。

 小学校にあがったばかりの娘を連れて歩いていたところ、娘がふざけてなかなか進まないので、少し前を歩いていたら、通りすがりのおばさんに腕をつかまれ、「子供をちゃんと見ておかないと、さらわれるわよ!!」と怒られたそうだ。

 

 中国では、さらった子供を、子のできない夫婦にアンダーグラウンドで売るという地下ビジネスが横行しているという話が、日本でも報じられている。

 ただ、中国人に聞くと、ある程度、大きくなった子供は騒ぐし、養子に出しにくいので、腕や足を折ったりして、障がい者とし、物乞いをさせるというのが、もっぱらの話だった。

 

 だから、中国の小学校は登校も下校も送り迎えが必須で、下校時間前の学校の前には迎えの大人の人だかりができている。仕事のある親のかわりに、退職した祖父母が来ていることも多い。

 

 担任は誰が迎えに来るのか把握していて、違う人が来た場合、子供を渡さないようにしていると、友人から聞いた。

 以前、北京で、親戚を名乗る大人に子供を引き渡したら、そのまま子供がどこかに連れ去られてしまったという事件もあったそうだ。

 

 これだけみなが警戒していても、誘拐事件はあとをたたない。別の友人の話では、知り合いの子供が、ちょっと目を放したすきに連れていかれたことがあったという。

 幸い、そのときはすぐに見つかり、連れ戻すことができたそうだが、他にも、身近なところで、そんな話を耳にする。

 

 最近、中国のSNSでは「迷子のための安全保護スポット」という書き込みが転載されまくっていた、と前述の友人は話す。

 

 内容は、「政府の要請で、銀行は迷子を保護する場所になっているので、親とはぐれてしまったら、銀行に行けばおうちに連絡してくれますよ!」というものだ。

 しかしその後、銀行の発表で、デマだということが明らかになった。

 

 でもこれは、誘拐問題に何も有効な対策をとっていない政府に対する、親の切実な願いだと友人。

 

 もっとも日本でも、幼い子供が連れ去られるという事件を耳にする。やはり、子供を一人で歩かせるのは危険ではないだろうかと、ためしに、「子供、連れ去り」をネット検索してみたところ、離婚したもと配偶者による連れ去りが多数ヒット、さらに「子供、連れ去り事件」で検索すると、わいせつ目的と思われる幼女の連れ去り事件の増加を報じるニュースが目についた。

 これはこれで、また、別の世相が垣間見えそうである。

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長い解説と働き方改革について思うこと

 今度、北京でお世話になった年配の中国人が来日するということで、航空券などを私が手配することになった。

 行く先は日本の地方都市で、北京からの直行便がない。

 

 中国の地方都市で一度飛行機を降り、そこで、出国手続きをとって、もう一度同じ飛行機に乗り、日本に向かうという経由便となる。

 

 くだんの年配の方は、これまで何度か海外に出たこともあるものの、おそらくこの種の経由便は利用したことがないだろう。

 どう説明しようと思案して、チケットの手配を頼んだ北京の旅行会社の知人に聞いてみたら、「出国手続きは経由都市で、北京で預けた荷物はそのまま日本まで、と伝えればよい」と返ってきた。

 

 しかしこれでは、初めての人にはシンプルすぎて、わからないのではないだろうか。

 そう思い、結局、先方の年配者には、経由便なので、出国手続きは経由する地方都市で行うこと、したがって、北京では出国手続きがなく、国内線の搭乗口から飛行機にのること、地方都市についたら手荷物をもっていったん飛行機を降り、出国手続きを行うこと、そして、再び同じ飛行機にのって日本に向かうこと、預けた荷物は日本までそのままでいいこと、を伝えた。

 

 すると、返事は一言、「要するに北京の空港では搭乗券もらうだけってことだな!」

 つまり、それだけ説明して、あとはカウンターで確認してと言えばよかったかもしれない。

 

 それでふと、日本の分厚いマニュアルと、中国のペラペラの説明書を思い出した。

 日本は、微に入り細を穿ち、あらゆる事態に備え、先回りしていろいろ準備する。

 対する、中国は要点だけ、あとはやってみてからわからなかったら聞けばいい、というか、自分で工夫してやって、というくらいのスタンスだ。

 

 これは、働き方のスタンスにも通じるところがあると思う。

 日本的な働き方は、いろいろ先回りして準備して、一歩一歩着実に進んでいく。反対に中国は、トライ&エラーを繰り返しながら、ざっくりまとめあげていくようなところがある。

 

 昨今、日本でも中国でも、長時間労働による過労死や自殺が問題になっているが、中国の場合は、工場の労働者の自殺でも、デスクワークの社員や企業家の過労死でも、いずれも発展途上の過剰なまでの競争がもたらした結果という印象がある。

 

 一方、日本の場合は、いろいろなものがじり貧になり、元手も人手も減るなかで、従来の働き方を維持しようとしていることに加え、何かこう、間違ってはいけないから、間違わないように手を尽くさなくてはいけないといった真面目さがもたらしているような部分があるのではないかという気がしてならない。

 

 日本人が、微に入り細を穿つような働き方をやめて、いきあたりばったり、もとい、問題は起きたら突破するくらいの気構えと、間違ったらまあそのとき軌道修正すればいいくらいの気軽さで、仕事をするようにしたら、少しはゆとりも出るのではないだろうか。

 

 と、思ったのだが、中国では、ときどき、日本では考えられないような、どひゃっというほど、とんでもないエラーが起きる。そして、それを軌道修正するのに、無駄な時間を費やすことになる。

 

 そう考えると、石橋を三回くらい叩いてわたる働き方のほうが、結果的には効率がよいと言えなくもない。

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人の目文化と顔面偏差値文化

 資生堂がすっぴんでテレビ会議に参加できるアプリを開発したそうだ。日経新聞を見ていたら、そんな記事がのっていた。

 すっぴんでも、画面上の顔は化粧しているように表示されるという。

 

 以前、北京―東京で、スカイプ取材をしていたとき、部屋にいるのに、毎回化粧するのもちょっと面倒だなあと思っていたことがあった。

 でもさすがにすっぴんで取材するのは失礼だし、自分もはずかしい。

 

 先日もまた、やはりスカイプで、遠方の日本人とやり取りをした際、私はすっぴんだったので、最初からカメラはオフにしていたら、相手からはビデオ通話がかかってきて、少々焦った。

 

 なので、この記事を読んだとき、おもわず「ナイス!」と、感激してしまったのだが、同時に、このアプリは、中国ではあまり受けなそうだなとも思った。

 

 中国の女性は化粧をしていない人もけっこう多いし、そもそも、「すっぴんでは恥ずかしくて外に出られない」みたいな考えは、人の目が気になる日本人的思考だろう。

 

 例えば、夏場、ドラッグストアやスーパーの棚一面に並ぶデオドラント商品などもそうだが、人の目気になる系の商品は、日本では一大ビジネスになっていると思う。

 北京のスーパーでデオドラント用品がずらりと並んでいるのを見たことはないし、売っていたとしても、周囲を気にして清潔に保つために使うというより、自分がさっぱりするために使うだろう。

 

 そして、自分自身、北京ではほとんど使うことがなかったデオドラント用のボディシートを、東京で大量に消費しながら、やっぱり自分は日本人だったと実感するのである。

 

 さて、話を戻すと、くだんの資生堂のアプリ。中国で、報道されているだろうかと、調べてみたら、天下の人民網が、朝日新聞の記事を翻訳&要約する形で伝えているのが、一件だけヒットした。

 

 でも、タイトルは「生堂推出美妆软 可提高视频画面颜值(資生堂が化粧アプリを開発、ビデオ画面で、顔値が向上)」。

 ちなみに朝日新聞の元のタイトルは「すっぴんでも画面内ではバッチリメイク 資生堂がアプリ」となっている。

 

 「顔値」というのは中国のネット用語で、直訳すれば、「顔面偏差値」とでもなるだろうか。

 美人の価値が高いのはどこの国でもかわらないが、こと、中国において、顔立ちのよさは学業でも仕事の上でも、日本以上に、有利になる要素だと思う。

 

 以前、北京五輪の開会式で、歌を歌った女の子の容姿がいまいちだったので、舞台にはきれいな子を立たせて口パクさせたという騒動もあった。

 

 そんな次第で、「すっぴんでは人前に出られない」日本人女性のために開発されたアプリは、ところ変われば、顔面偏差値を向上するアプリとして紹介される。

 そして仮に、かの国で、配信されることがあれば、「自分の価値を上げるためのアプリ」として使われるのかもしれない。

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店頭の季節感

 コンビニで、ジャック・オー・ランタンのシールがはられた商品や、ハロウィングッズが並んでいる。

 ずいぶん気がはやい話だと思いながらも、なんとなく、「もうそんな季節なんだな」という気分になる。

 

 東京にいるとそんな風に、店頭の商戦に、季節を感じることが多い気がする。

 バレンタインやクリスマスもしかり。

 さらにはスーパーに並ぶお手軽な正月飾り、ひな祭りのおかし、節分の恵方巻、土用の丑の日のウナギなど、とにかくめまぐるしく季節の「イベント商品」が店頭に並ぶ。

 

 思えば北京でも、東京ほど頻繁ではないけれど、ショッピングモールやスーパーマーケットの店頭で、季節を感じることはあった。

 秋に派手派手しい月餅コーナーが出現すれば、「ああ、中秋節か」と思うし、春節グッズやら贈答用品やらが並び始めれば、「いよいよ新年だなあ」という気分になった。

 

 あるいは、クリスマスが近づくと、大型ショッピングモールにツリーが飾られるだけでなく、ローカルの小さな店のドアにまで、同じような赤ら顔のサンタクロースのシールがはられ、ずいぶんクリスマスムードが盛り上がる。

 

 ただ、北京の店頭に感じる季節感と、東京のそれは、違う気がする。

 何が違うのだろうと考えると、東京のそれが、「仕掛け」の中の季節感であるのに対し、北京のそれは、背景に人と人のつながりやコミュニケーションがあり、そこに季節を感じていたように思う。

 

 例えば、中秋節には「ああ、今年もまた、家族や仲間で集まり、月餅を送りあって人間関係を温めあうんだろうな」とか、春節には「地方出身の人たちは、大量にお土産買い込んで、故郷に帰るんだろうなあ」などと、店頭から思いをはせるところに、季節感があった。

 

 クリスマスは改革開放以降の新しい「イベント」で、イブ(平安夜)には「平安(ピンアン)」と「苹果(ピングオ)=リンゴ」をかけて、リンゴを贈り合うという習慣がいつのころからか生まれた。

 そして、赤い皮に「平安」などの文字を白抜きしたリンゴが大量に出回り、一大商戦が展開するのだが、それもまた、そうした人と人のつながりに季節を感じた。

 

 これは、人間関係を重視する中国ならでは季節感かもしれない。

 でもそれだけでなく、社会が成熟すると、季節の感じ方もかわっていくように思う。

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