中国在住10年を経て帰国。
中国、という日本とは違った視点で、
日本をあれこれ考えてみる、
日中文化考ブログ by 田中奈美
「格安」考

 某日、ネットをつらつら見ていたら、脳ドッグのLCCという文句が目に入った。

 すなわち、脳ドッグを2万円以下の格安で受けられるという。

 某IT大手のOBが脳ドッグに特化して始めた予防ビジネスで、予約から結果通知、さらには検査画像の確認にいたるまですべてネットで行えるようになっている。

 

 その紹介記事自体がステマっぽいし、院長の専門が循環器内科というのは少々ひっかかったが、いろいろコストダウンの努力をしていてこの価格、という話はあながちウソではなさそうだった。

 とりたてて悪いところもないけれど、この値段なら、ちょっと話のタネに受けてみようかなと、そんな気になった。

 

 そして、これが中国なら〜、と考えた。

 中国国内で、「格安」が成立するシーンはわりと限られると思う。

 

 スマホや家電、航空業界など、過当競争でしのぎをけずっている業界は、より大きな市場を獲得すべく、じゃんじゃん資金を投じて、いいものを安く提供する傾向があるけれど、多くの場合、安い=粗悪品(安心できないもの)であり、高い=よいもの(安心できてブランド価値が高いもの)的なイメージは根強い。

 そもそも、よいものは値段をあげても売れるので、一般に値段が釣りあがることが多いと感じる。

 

 ましてや、不信感が蔓延する中国の医療業界では、予防ビジネスとはいえ、「格安」商売が成り立つとはあまりイメージしにくい。

 

 ということで、東京で格安脳ドッグを受けてみた。所要時間は30分。ささっと超お手軽で、1週間ほどで結果の通知メールが届いた。

 そしてWEBのマイページに表示された結果は動脈瘤の疑いあり。ただし、現状ではクモ膜下出血の可能性は極めて低く、年に1度の検査を受けましょうという内容である。

 

 説明するのでご来院くださいと書かれていて、話を聞きにクリニックにおもむくと、医師は「疑い」なので動脈瘤とはかぎらないが、念のため3カ月後にもう1度受けたほうがよいとのたまう。ちなみにどこの部分の血管か聞いたところ、返ってきた答えが「脳の奥」。

 

 もしかしたら、そうしてリピート客をつくるというビジネスモデルなのかもしれない。

 不安商法といえばそうかもしれないが、本当に不安なら大きな病院できちんと検査をすればよいだけのことなので、とりたてて実害はない。

 

 これが中国なら、悪くないところを悪いと言われて不要な手術でがっぽりとられるとか、そこまでではなくても、あとからいろいろ追加検査されて請求されるかもしれない、などと妄想が膨らんでしまう。

 そう考えると、手軽にさくっと脳ドッグを受けられるサービスがあるのはありがたいことだといえるのではないだろうか。

 

 そして、日本で格安脳ドッグのようなビジネスが成り立つのは、監督体制がそれなりに機能しているというだけでなく、それだけ社会が成熟して安定しているということなのかもしれないと、そんなことを考えるのである。

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電車の遅延アナウンスに想うこと

 某日、京王線に乗っていると、緊急信号を受信したとかで、電車が2回急停止した。結局、安全を確認したということですぐに発車したのだが、その後、「緊急停止を2回したために、3分遅れが生じました。ご迷惑をおかけしました」という車内アナウンスが、駅につくたびに繰り返された。

 

 加えてその帰り道、今度は山手線で3分の遅延が出て、やはり駅に着くたびに説明とお詫びのアナウンスが流れていた。

 

 丁寧で誠実といえばそうかもしれないが、なにもそこまでしなくても……と思ったのは、私一人ではないだろう。

 

 また、ある時、都電荒川線に乗ると、運転席近くに「乗務員が体調維持のため、停車中に水分補給を行う場合があります」という張り紙があり、おもわずのけぞったこともあった。

 北京のバスでは、運転手も車掌のおばちゃんも、お茶入りマイボトル持参は当たり前の光景だったので、まさかあえて説明をするようなことであるとは思いもよらなかった。

 

 それにしても、運転手がお茶を飲むことや、たかが3分の遅延におことわりや謝罪が必要だとしたら、そんな社会はずいぶん息苦しそうだ。

 そう考え、はたと思った。

 

 この種のアナウンスに違和感を覚えるのは、単にトゥーマッチというだけでなく、「謝罪するのでお許しください」的な「保身」と表裏一体なところがあるからではないだろうか。

 であるならば、保身という防御において、バカまじめさをさらけ出して謝罪するという戦略がまかり通る日本は、やはりきわめて「いい国」といえるかもしれない。

 

 中国でも近年は謝罪が増えたが、基本的には、攻撃は最大の防御である。

 例えば、去年、北京に行ったときのこと。

 予約したホテルに行くと、ガラス扉の向こうは真っ暗だった。一時的な停電かと思い、ドアをあけると、真っ暗なフロントにいた若いスタッフいわく、「公安からの営業停止を受けたので今日は泊められません」。

 

 そして「かわりに、姉妹店があるので、そちらに案内する」とのこと。ただ、聞けば、かなり遠方の郊外。私はこの場所に用事があって、ここのホテルをとったのだから困ると言えば、「じゃあ、自分でなんとかしてください」。

                                             

 そこからはもういわずもがなのバトルである。こちらが「そっちの都合で泊められないんだから、近隣のホテルに連絡して替わりの部屋を手配すべき」と言えば、「私たちだって公安に言われた被害者。姉妹店に案内するといっているのに勝手を言っているのはそっちのほう」とやり返す。

 

 あとから聞いた話では、実はドミトリーの一室で盗難があり、盗難にあったのがアメリカ人で、1000ドルという大金であったために警察沙汰となったそうだ。それで、店主も責任を問われ、前日から拘留され、スタッフも徹夜で対応に追われていたという。

 

 結局、かなりのすったもんだのすえ、なんのことはない、歩いて数百メートルのところにもう一軒姉妹店があり、そこに一部屋取ってもらうことができた。

 最初からそこに案内しなかったのは、オンシーズンで、私が入ると満室になってしまうので、あけておきたかったようだ。

 

 ホテルの「自分たちも被害者」という言い分は、確かに一理あるのだが、それでもこういうとき、自分は悪くなくてもとりあえず謝る日本式が恋しくなる。

 

 さて、話をもどすと、冒頭の電車の遅延謝罪アナウンス。

 せっかくなので、海外ではおそらくあまりみることができないだろうそれを、東京五輪に向けて、英語と中国語と韓国語でも流したらどうだろうか。

 

 それが海外の人にとって「心地よい」かどうかはわからないが、戦略的にやれば「名物」になるかもしれない。

 そうしたら、3分遅延で謝罪のアナウンスも、もっと楽しいものになるのでは、と妄想するのである。

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「おいしい」の佇まい

 先日、KINBRICKS NOWさん主催の忘年会で、「中国という隣人」の水彩画さんから、空也の最中をいただく機会があった。

 

 空也は銀座に店を構える、最中で有名な和菓子の老舗で、ネット販売はしていないので、店舗に行かないと買うことができないそうだ。しかも、最中は連日ほぼ予約で完売してしまうので、電話予約必須、さらにその電話もずいぶんつながりにくかったと言う。

 

 でもだからといって虎屋の羊羹みたいな高級品でなく、いたって庶民的お値段で、その価格とクオリティを保つために、このような販売スタイルになっている、というのは、後日、ネットで読んだ情報である。

 

 さて、そのいただいた最中、バクっと一口でいけてしまうくらいの小ぶりながら、あんこがぎゅーっとつまっていて、さらに皮がなんとも香ばしい。

 1週間くらい日持ちするということで、1日1個ずつ食べることにすると、日がたつにつれて皮が微妙にしっとりしてきて、なんともいえないじんわりとしたおいしさが増した。

 

 それを味わいながら、ふと、日本の「おいしい」の佇まいとはこういうものか、と思った。

 華美を求めず、シンプルで、品数は増やさず、数点、時には1点勝負で、こだわりとまごごろを凝縮して味を極める。日本の「おいしい」の佇まいは、どこかミニマムでつつましい。

 

 そう感じるのは、中国の「おいしい」の佇まいが、看板メニューを筆頭に、豊富な品数でバラエティにとんだメニューをドーンと展開するマキシマムなところにあるからかもしれない。

 シンプルな麺屋さんでも、日本のラーメン店みたいに、メニュー数品などということはまずなくて、各種具材を変えた麺が並ぶ。

 道端の出店ですら、メニュー1点勝負ということはなく、中国式クレープとでもいうべき煎餅(ジエンビン)でも、粉の種類が選べたり、中に挟むものを選べたりする。

 

 餃子にいたっては、餡の肉の種類だけでもブタ、ウシ、ヒツジなどがあり、さらにブタと白菜、ウシとニンジンなど野菜との組み合わせが定番からオリジナルまで無限にあって、それが店の個性を生んでいる。

 

 ところが、日本の餃子専門店の場合、逆に具はシンプルでこだわりぬいた××、というところに個性が発揮される。

 

 国民性の違いといえばそれまでかもしれないし、そもそも大人数でワイワイ食べることが多い中国と、個人もしくは少人数での食事が一般店な日本の外食スタイルの違いもあるかもしれない。

 

 ただ、では、今の日本において、1点もしくは数点勝負のミニマムな「おいしい」の佇まいを支えているものが何かと考えてみると、それはもしかしたら、これぞ「個性」とみなが(あるいはメディアが)いうものに「個性」を求めておけば安心的なさっこんの風潮ではないか、とも思うのである。

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「こうあるべき」という病巣〜まとめサイト問題に思うこと

 このところ、世間を騒がせているDeNA傘下の療情報サイト「WELQ」に関するニュースを見ていて、ふと疑問に思ったのは、明らかに素人が書いたであろう無料の医療情報に信ぴょう性がなく、コピペ記事であることが、どうしてこれだけ問題になるのだろうか、ということだった。

 

 中国でもこうしたなんちゃって医療情報記事はとてつもなく多い。だいたい、あやしげな医療広告とセットになっていて、それにはまる人も少なくない。

 中国人は、日本人以上にネット情報に対して注意深いものの、手口はどんどん巧妙になっていくし、教育レベルの問題もあって、やはり騙される人は後を絶たない。

 

 今回の騒動は、DeNAのように上場までしている大手企業がこんな信頼性を損なうことをしていかがなものか、というのは、当然あるだろうとは思う。

 これが無名のよくわからない企業がやっていることであれば、ここまで騒動にならなかったかもしれない。

 

 ただそれだけでなく、日本の社会はどこか、「あるべき姿勢」というものを前提にしているところがあると感じる。

 公開する情報は正しくて当たり前、大企業は責任ある行為を行って当たり前、さらには人をだまさなくて当然だ、みたいな空気を感じる。

 

 これは、日本社会ではまだ、性善説が健在な証であるとも思う。

 例えば、ホテルは、客が3カ月前に予約し、支払をすませていなくても、ちゃんと当日まで部屋をキープしておいてくれる。こんなこと、中国ではまずありえない。

 

 病院では会計は一番最後、しかも払わず逃げ放題なシステムだけれど、患者はおおむねちゃんと支払うだろうし、病院も支払うことが前提ですべてが行われる。

 

 ちなみに中国の病院は、すべて先払いだ。まず、診察料に相当する金を払って、診察の順番カードを取得し、診察を受ける。そこで、検査をすることになったら、まず会計窓口に行き、支払いをしてから、その領収書を持って検査を受ける。

 このため、病人は診察室と会計窓口(しかも検査の内容によって支払い場所が異なる)と検査室を、大量の病人(と付き添い人)にもみくちゃにされながら往復しなければならない。でも日本では、そんなことはありえない。

 

 基本的に性善説で、信頼を前提に話が進む日本は、なんてすばらしいんだろうと思う。

 でも同時に、悪意や狡猾さに対して、免疫が低いのではないかと思うこともある。

 

 世の中は、残念ながら、わりと欺瞞に満ちていると感じる。

 例えば、スーパーやドラッグストアに行くと、いまやノンシリコンシャンプーが溢れていて、ネットには、髪にとってシリコンは悪、みたいな情報が溢れている。

 

 でも、長い付き合いの美容師さんは、ノンシリコンシャンプーをあまり勧めない。別によくもなければ悪くもないという感じだ。髪質にもよるので、ノンシリコンで髪がキシキシになり、櫛にひっかかって抜け毛が増えるようなシャンプーは、逆によくないのではないかと話す。

 

 実は、ノンシリコンが流行り始めたころ、棚に並んだ各種のノンシリコンシャンプーは、みな同じメーカーの製品で、それも10名に満たない会社がやっているという話だった。

 ネットで調べれば、ノンシリコンシャンプーの火付け役メーカーの名前も出てくるが、それもあくまでネット情報なので、どこまで本当かはわからない。

 

 一億総中流社会はとっくに過去のものとなり、グローバリゼーションの波も押し寄せて、日本社会もうかうかしていてはどん底に落ちかねないような雰囲気が漂う。

 いろいろとじり貧になっていく中、ズルして勝ち抜こうという人は当然増えるだろう。

 

 そうでなくても、くだんのネット記事についていえば、4000字でせいぜい1万円程度なんて、あきらかに安すぎる原稿を依頼する側としては、「できるだけ手間をかけずに、書いてください」とお願いせざるをえない。

 

 私もそうお願いするし、されたことも何度もある。

 その過程で、「××を参考にして、ちゃちゃっとお願い」と言われることもあれば、それが進めば「××と××をコピペして、著作権にひっかからないように表現を変えて」などという依頼が来るのは痛いほどよくわかる。しかもこんな安い記事に校閲などつくわけもない。

 

 私は幸い、そういうコピペ仕事を受けることはなかったけれど、要は、末端レベルでは、悪意すらなく、逆にただ、依頼する側とされる側の「善意」で、なんちゃって記事が生まれることもありうるということだ。

 

 そんな中、「正しくあるべき」という前提とそうした物事の見方は、問題解決にはつながらない。

 「あるべき」は到底無理な状況で、ではどうしたらいいのか、という問いかけが必要ではないかと考えるのである。

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半径3メートルの民主主義
 東京で、いつの間にかマンションの管理組合の役員に選出されていた。
 部屋番号で順繰りに回ってくるらしい。
 
 あるとき、掲示板を新設するという話があがった。
 マンションには管理会社が入っていて、設備の管理などもろもろ担当しているのだが、 組合の経費から出すため、管理会社が勝手に掲示板を設置することはできない。
 理事会での同意が必要だという。
 
 理事会は11名いて、うち6名の賛成があれば成立なのだそうなのだが、みなさん仕事もあるためなかなか集まれない。定例会に4人しか来なくて会が流れることもあり、1枚の掲示板の設置に何カ月かかかっていた。
 
 思わず管理会社の担当者に「民主主義って大変ですね」と言ってしまう。
 もっともこの面倒さを貴重だと思えなければ、民主主義はやっていられないに違いない
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トウキョウ自転車ロード
 東京の下町でレンタルした自転車に乗った。日本で自転車に乗るのは、実に20年ぶりくらいだろうか。
 北京では自転車は必需品で、愛用していたので、走ることじたいに問題はないのだが、困ったのは、東京には自転車道がないということだ。
 
 北京ではどこを走っていても、車道と歩道の間に自転車道がある。
 東京では車道を走るべきか、歩道を走るべきかと迷い、とりあえず、歩道は怖くて走れないので、北京の習慣で、車道の右はじを走った。
 するとちょうど交番があり、おまわりさんに「左側を走りましょう」と指導された。
 
 そこで左側に移動すると、ほどなくして急な登り坂があった。
 北京の道は概ね平らで、坂を自転車で登るというのも実に20年ぶりくらいだ。幸いレンタルした自転車は電動アシストなので、スイスイとのぼれる。
 
 これは楽ちん、と思ったら、次は崖のような下り坂。道の先は階段になっていた。
 自転車を降りておもわず途方に暮れる。
 
 北京なら階段には、自転車用のスロープがついていて、そのまま通ることができる。
 しかし今、目の前にあるのは、絶壁のような階段のみで、重い電動アシストの自転車をかかえて降りることはできない。
 
 仕方ないので、いったん路地を引き返し、別の路地に入る。
 ここでさらに困ったのは、東京の路地は複雑にカーブを描き入り組んでいるということだ。
 
 北京の胡同もときどき行き止まりなどあるが、基本的には碁盤の目なので、東にまっすぐ走っているつもりが、いつの間にか正面に太陽がのぼっているということはない。
 
 おまけに道を聞こうにも、住宅街の路地裏は静まり返っていて、人の気配がない。
 これが北京の胡同であれば、昼寝時以外、おじさんおばさんたちが道端に椅子をひっぱりだして、おしゃべりをしたり、ぼーっとしたり、囲碁をしたりしているので、誰かに道を聞くことが可能だ。
 
 その回答が必ずしも正しいとは限らないのが北京流だが、誰もいなくてどうにも困るということはまずない。
 
 結局、さんざん迷いに迷い、3キロの道のりを、40分かけても目的地にたどりつけず、途中、自分がどこにいるのかもわからなくなり、あやうく遭難しかけた。
 ようやく見覚えのある場所に出たときには涙が出そうだった。
 北京がちょっだけ恋しくなった
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ニッポン10年の変化
 中国はこの10年で、街も人も劇的に変化をした。
 それに比べ、日本はあまりかわらないと、この10年思っていた。
 しかしこのたび長期的に北京を離れ、改めて日本もこの10年で変わったのだと感じる。
 
 テレビをつけると、10年前ほとんど話題になった記憶のない遺品整理ビジネスが番組で取り上げられ、墓ツアーなるものが紹介されている。
 少し前は介護の話題が目についた気がする。それは今でもあると思うのだが、すでに定番化し、さらにその先まで来てしまったようだ。
 
 友人にその話をすると、最近のビジネスマーケットは人生の果ての部分に行きついた感があるという話になった。
 
 もう1つ、日本の××が外国人に評価されているといった番組もちらほら見かけるようになったように思う。
 あるいは10年前も同じくらいちらほらあって、ただ意識していなかっただけかもしれない。だが、久しぶりにそういう番組を見ると、なんだか中国中央テレビ(CCTV)の「幸せですか」コーナーを思い出す。
 
 これはCCTVのキャスターが定番ニュース番組で、農民から町の人まで、あちこちで「幸せ(シンフー)ですか?」と聞きまくり、「今の政府のおかげで幸せ(シンフー)です」的紋切り型の幸せ話を語らせ、自国を自画自賛するというコーナーだった。
 
 もっともこちらは「うん、僕の姓(シン)は福(フ―)です」と超ナイスなおちょくり回答を得たりして、それはそれで大変に盛り上がったのだが、日本のほうはいまひとつ盛り上がりにかける気がしなくもない。
 それでも「日本のここがすごい」番組が作られるほどに、日本人は自国を「すごくない」と思っているのだろうかと、思わずそこにも日本の「変化」のようなものを感じてしまう。
 
 余談ながら、日本のすごさというのは、むしろ「ごく普通にちゃんとしている」というところにあると、スーパーに行くたびに思う。
 なんということはないローカルなスーパーに、新鮮な野菜があふれ、農薬はそれなりに使われているだろうが、「このみずみずしさは果たして薬によるものだろうか」と考え込む必要はそれほどないし、やたら巨大なレタスを前に「促進剤が使われているのか」と思う必要もない。
 
 惣菜コーナーでは、この惣菜に何が入っているわからないと警戒する必要はなく、それどころかお手軽で普通においしい。
 手軽といえば、日本のレトルト製品の充実ぶりがまたすごい。
 電子レンジでチンをするだけとか、他の具在とちゃちゃっと混ぜて作ればよいだけの製品にあふれ、それもまた「病死した豚肉を使ってるんではないか」などと心配する必要もなく、「ブランド名がついているけれど、ブランドを語った偽物ではないか」と疑う必要もない。してなかなか本格的な料理が簡単につくれたりする。
 
 料理がそれほど得意でない私のようなものは、中国にいると延々と同じような料理を作り続けることになるのだが、日本ではさまざまなバリエーションの料理を簡単につくることができ、結果、毎日せっせと自炊している。
 結局のところ、日本のレトルト食品にいちいち感動してしまう自分のほうが、この10年で変わったのかもしれない。
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ミニマム・セレブ@日本
 日本にいてしみじみ思うことは、中国がこの10年で劇的にかわったのに対し、日本はさして大きな変化はないようだということだ。
 
 もっとも行ったり来たりしていたので、変化という変化を感じられていないだけかもしれない。
 昼にテレビをつけて「いいとも」がないことに、改めて時の流れを感じつつ、借金過払いうんぬんのCMがよく流れるようになったことに、日本の「今」を軽く見る気がする。
 さしたるところ感じた変化はそのくらいだろうか。
 
 ただ逆に、ああ日本なのだなあと思ったのは、夜のテレビのセレブ特集で、20代のセレブ夫婦が住んでいるマンションが家賃20万円とかいうくだりだ。
 テレビなので、本当の「セレブ」は出てこないかもしれないが、そもそもセレブなのに賃貸に住んでいて、しかもその家賃が「たった」20万円であり、それが「セレブ」として番組になるということは、中国では「あり得ない」。
 
 当然ながら私は日本でも中国でも家賃20万円の家になぞ住めないのだけれども、それはさておき、まず第一に、中国でセレブは賃貸には住まない。
 というより一般庶民でも、持家がない者は「負け犬」とみなされると、家賃高騰のためにマンションを買いそこなった友人は嘆いていた。
 
 いまの中国の価値観には、勝ち組か負け組しかないようなところがある。
 人生そこそこの「そこそこ」を狙っていては、とてもではないが生きぬいていけないようなムードもある。
 あるいは「そこそこ」でいいやと思っていたら、周りがあっというまに稼ぐようになって、「そこそこ」どころか「どんぞこ」みたいなことも普通にあり得る。
 
 だから、セレブが賃貸に住んでセレブでいられ、「たかだか」100平米のマンションがセレブの部屋として紹介される日本のミニマム感は、この国の平穏さをそのまま物語っているように思うのである。
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着る毛布@日本

 東京は、ある点において、北京よりもかなり寒いと思う。

 なぜなら北京市には「暖気」という全市暖房システムがあり、家の中はぽかぽかだからだ。私が借りているオンボロアパートでも20℃以上はある、

 対する東京のマンションはエアコンを切れば冷え切ってしまい、つけたところで足元は寒い。加えて電気代もばかにならない。

 

 何かいいアイデアはないかとネットをみていたら、「切る毛布」なるものがヒットした。

 毛布に袖をつけ、ダボダボ&ズルズルのガウンのようにして着られるようにしたもので、以前はみかけなかったと思うので、ここ数年のブームだろうか。

 

 ダボダボ&ズルズルの状態でモデルがさまざまなポーズをとり、「ほら、とってもオシャレ!」といった宣伝文句がついている。しかもそのオシャレさと機能は年々進化を遂げ、より暖かさを追求するためにフードがついたり、より便利さを追求するためにポケットや、裾をたくしあげられるベルトがついたり、いろいろなカラーを取りそろえたりしている。

 

 所詮ダボダボ&ズルズルの毛布ガウンでそこまで追求する日本的スピリットはすばらしいと思うのだが、同時にこの国は退屈なまでに平和だと感じてしまう。

 とはいえ、「これで暖房いらないわ〜」といった口コミをみていると、うっかり購入ボタンをポチッとしてしまいそうな自分もいたりする。

 
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お役所の広告つき封筒@日本

 帰国中、市役所で住民票をとったら、それを入れる封筒もついてきた。

 中国ではありえないとサービスだなあと思い、受け取った封筒をみると、そこには墓石店の広告があり、「この封筒は広告料により作成されました」と書かれていた。

 

 中国でこんなことをしたら、それはもう大変なことになりそうだ。一般庶民は、この広告付き封筒を制作するために動いた金は、「広告料」なんてものではないだろうと思うだろうし、実際のところそんなものではないだろう。

 ましてや墓石広告なんて、ネットでブラックジョークがあふれそうだ。

 

 そう考えると、こんな広告付き封筒を市民に配布して、何の問題にもならない日本の市役所は、それだけ「クリーン」であるに違いない。

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