先日、KINBRICKS NOWさん主催の忘年会で、「中国という隣人」の水彩画さんから、空也の最中をいただく機会があった。
空也は銀座に店を構える、最中で有名な和菓子の老舗で、ネット販売はしていないので、店舗に行かないと買うことができないそうだ。しかも、最中は連日ほぼ予約で完売してしまうので、電話予約必須、さらにその電話もずいぶんつながりにくかったと言う。
でもだからといって虎屋の羊羹みたいな高級品でなく、いたって庶民的お値段で、その価格とクオリティを保つために、このような販売スタイルになっている、というのは、後日、ネットで読んだ情報である。
さて、そのいただいた最中、バクっと一口でいけてしまうくらいの小ぶりながら、あんこがぎゅーっとつまっていて、さらに皮がなんとも香ばしい。
1週間くらい日持ちするということで、1日1個ずつ食べることにすると、日がたつにつれて皮が微妙にしっとりしてきて、なんともいえないじんわりとしたおいしさが増した。
それを味わいながら、ふと、日本の「おいしい」の佇まいとはこういうものか、と思った。
華美を求めず、シンプルで、品数は増やさず、数点、時には1点勝負で、こだわりとまごごろを凝縮して味を極める。日本の「おいしい」の佇まいは、どこかミニマムでつつましい。
そう感じるのは、中国の「おいしい」の佇まいが、看板メニューを筆頭に、豊富な品数でバラエティにとんだメニューをドーンと展開するマキシマムなところにあるからかもしれない。
シンプルな麺屋さんでも、日本のラーメン店みたいに、メニュー数品などということはまずなくて、各種具材を変えた麺が並ぶ。
道端の出店ですら、メニュー1点勝負ということはなく、中国式クレープとでもいうべき煎餅(ジエンビン)でも、粉の種類が選べたり、中に挟むものを選べたりする。
餃子にいたっては、餡の肉の種類だけでもブタ、ウシ、ヒツジなどがあり、さらにブタと白菜、ウシとニンジンなど野菜との組み合わせが定番からオリジナルまで無限にあって、それが店の個性を生んでいる。
ところが、日本の餃子専門店の場合、逆に具はシンプルでこだわりぬいた××、というところに個性が発揮される。
国民性の違いといえばそれまでかもしれないし、そもそも大人数でワイワイ食べることが多い中国と、個人もしくは少人数での食事が一般店な日本の外食スタイルの違いもあるかもしれない。
ただ、では、今の日本において、1点もしくは数点勝負のミニマムな「おいしい」の佇まいを支えているものが何かと考えてみると、それはもしかしたら、これぞ「個性」とみなが(あるいはメディアが)いうものに「個性」を求めておけば安心的なさっこんの風潮ではないか、とも思うのである。