中国在住10年を経て帰国。
中国、という日本とは違った視点で、
日本をあれこれ考えてみる、
日中文化考ブログ by 田中奈美
人の目文化と顔面偏差値文化

 資生堂がすっぴんでテレビ会議に参加できるアプリを開発したそうだ。日経新聞を見ていたら、そんな記事がのっていた。

 すっぴんでも、画面上の顔は化粧しているように表示されるという。

 

 以前、北京―東京で、スカイプ取材をしていたとき、部屋にいるのに、毎回化粧するのもちょっと面倒だなあと思っていたことがあった。

 でもさすがにすっぴんで取材するのは失礼だし、自分もはずかしい。

 

 先日もまた、やはりスカイプで、遠方の日本人とやり取りをした際、私はすっぴんだったので、最初からカメラはオフにしていたら、相手からはビデオ通話がかかってきて、少々焦った。

 

 なので、この記事を読んだとき、おもわず「ナイス!」と、感激してしまったのだが、同時に、このアプリは、中国ではあまり受けなそうだなとも思った。

 

 中国の女性は化粧をしていない人もけっこう多いし、そもそも、「すっぴんでは恥ずかしくて外に出られない」みたいな考えは、人の目が気になる日本人的思考だろう。

 

 例えば、夏場、ドラッグストアやスーパーの棚一面に並ぶデオドラント商品などもそうだが、人の目気になる系の商品は、日本では一大ビジネスになっていると思う。

 北京のスーパーでデオドラント用品がずらりと並んでいるのを見たことはないし、売っていたとしても、周囲を気にして清潔に保つために使うというより、自分がさっぱりするために使うだろう。

 

 そして、自分自身、北京ではほとんど使うことがなかったデオドラント用のボディシートを、東京で大量に消費しながら、やっぱり自分は日本人だったと実感するのである。

 

 さて、話を戻すと、くだんの資生堂のアプリ。中国で、報道されているだろうかと、調べてみたら、天下の人民網が、朝日新聞の記事を翻訳&要約する形で伝えているのが、一件だけヒットした。

 

 でも、タイトルは「生堂推出美妆软 可提高视频画面颜值(資生堂が化粧アプリを開発、ビデオ画面で、顔値が向上)」。

 ちなみに朝日新聞の元のタイトルは「すっぴんでも画面内ではバッチリメイク 資生堂がアプリ」となっている。

 

 「顔値」というのは中国のネット用語で、直訳すれば、「顔面偏差値」とでもなるだろうか。

 美人の価値が高いのはどこの国でもかわらないが、こと、中国において、顔立ちのよさは学業でも仕事の上でも、日本以上に、有利になる要素だと思う。

 

 以前、北京五輪の開会式で、歌を歌った女の子の容姿がいまいちだったので、舞台にはきれいな子を立たせて口パクさせたという騒動もあった。

 

 そんな次第で、「すっぴんでは人前に出られない」日本人女性のために開発されたアプリは、ところ変われば、顔面偏差値を向上するアプリとして紹介される。

 そして仮に、かの国で、配信されることがあれば、「自分の価値を上げるためのアプリ」として使われるのかもしれない。

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店頭の季節感

 コンビニで、ジャック・オー・ランタンのシールがはられた商品や、ハロウィングッズが並んでいる。

 ずいぶん気がはやい話だと思いながらも、なんとなく、「もうそんな季節なんだな」という気分になる。

 

 東京にいるとそんな風に、店頭の商戦に、季節を感じることが多い気がする。

 バレンタインやクリスマスもしかり。

 さらにはスーパーに並ぶお手軽な正月飾り、ひな祭りのおかし、節分の恵方巻、土用の丑の日のウナギなど、とにかくめまぐるしく季節の「イベント商品」が店頭に並ぶ。

 

 思えば北京でも、東京ほど頻繁ではないけれど、ショッピングモールやスーパーマーケットの店頭で、季節を感じることはあった。

 秋に派手派手しい月餅コーナーが出現すれば、「ああ、中秋節か」と思うし、春節グッズやら贈答用品やらが並び始めれば、「いよいよ新年だなあ」という気分になった。

 

 あるいは、クリスマスが近づくと、大型ショッピングモールにツリーが飾られるだけでなく、ローカルの小さな店のドアにまで、同じような赤ら顔のサンタクロースのシールがはられ、ずいぶんクリスマスムードが盛り上がる。

 

 ただ、北京の店頭に感じる季節感と、東京のそれは、違う気がする。

 何が違うのだろうと考えると、東京のそれが、「仕掛け」の中の季節感であるのに対し、北京のそれは、背景に人と人のつながりやコミュニケーションがあり、そこに季節を感じていたように思う。

 

 例えば、中秋節には「ああ、今年もまた、家族や仲間で集まり、月餅を送りあって人間関係を温めあうんだろうな」とか、春節には「地方出身の人たちは、大量にお土産買い込んで、故郷に帰るんだろうなあ」などと、店頭から思いをはせるところに、季節感があった。

 

 クリスマスは改革開放以降の新しい「イベント」で、イブ(平安夜)には「平安(ピンアン)」と「苹果(ピングオ)=リンゴ」をかけて、リンゴを贈り合うという習慣がいつのころからか生まれた。

 そして、赤い皮に「平安」などの文字を白抜きしたリンゴが大量に出回り、一大商戦が展開するのだが、それもまた、そうした人と人のつながりに季節を感じた。

 

 これは、人間関係を重視する中国ならでは季節感かもしれない。

 でもそれだけでなく、社会が成熟すると、季節の感じ方もかわっていくように思う。

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中国的キラキラネームと名前に求める個性の特別感

 最近、仕事関係で知り合った中国人の名前がちょっと変わっていた。

 例えていうなら、姓が「王」で、名前が「子」で「王子」さん、みたいなそんな名前である。

 

 それでふと、中国のキラキラネームにはどんなものがあるだろうと思った。

 最初に思いつくのは、ドラマでしばしば見かける、英語名を漢字表記したっぽい感じの女性の登場人物の名前だ。

 例えば、「爱丽丝(アリス)」「茱莉(ジュリア)「安娜(アンナ)」といった具合である。

 

 でも私の日常の範囲では、爱丽丝さんや茱莉さんに会うことはなかったし、英語名を漢字表記しているだけなので、まあちょっと今どきすぎる名前なのね、という印象だろうか。

 また、一昔前に流行った「革命」さん、「前進」さん、「建国」さんといった名前は、言ってみれば、革命時代のキラキラネームということになるかもしれない。

 

 ちなみに、中国にも年代別の名前によく使われる漢字一覧というのがあり、それによれば、男性の場合、60年代生まれのトップ3は「軍」「勇」「偉」、2000年生まれのトップスリーは「涛」「浩」「鑫」のほか、「傑」「宇」などという漢字が上位にあがる。

 

 女性のほうのトップ3は、60年代生まれは「秀英」「桂英」「英」、2000年代生まれは「婷」「静」「穎」のほかに「雪」「敏」など。

 

(「60后至10后的爆款名字!有人一家三代都中了」http://news.xinhuanet.com/local/2016-01/14/c_128627751.htm

 

 さて、では、そもそも中国に「キラキラネーム」に相当する単語があるかと調べてみると、日本のキラキラネームが「びっくりな日本の名前」として紹介されているなかで、中国語では「怪名(おかしな名前)」と訳されていた。

 

 でも、中国の「怪名」といえば、同音異義語でトンデモなものを連想させる名前、例えば「范統(飯桶=ごくぶし)」「夏建仁(下賤人=ばかやろう)」「朱逸群(猪一群=ブタ一群)」「沈京兵(神経病=精神病)」「史珍香(屎真香=クソ薫)」という感じで、日本のキラキラネームのキラキラさには遠く及ばない。

 

 そこで、読めない名前を調べてみると、「生癖字」といわれるパソコンで打てない難しい漢字を使った名前がヒットする。90年代に漢字が現在のものに整備される以前につけられた名前にはまだ残っているようだが、身分証などの手続きに非常に面倒なので、今はもうつける人はかなりの少数派のようだ。

 

 こうしてみると、なんの根拠もないことだが、個性が強くてフツーなかの国で、特別強い個性を発揮する名前に、それほど高いニーズはない気がする。というより、名前の漢字にさまざまな意味は込めても、それで個性を発揮するという発想自体ないのではないか。

 

 そうなると、日本のキラキラネームは、没個性的社会ゆえの、ちょっとゆがんだ個性の渇望といった側面がありはしないか、と思うのである。

 

→(訂正&追記)超Cさん事件の件についてご指摘いただきました。2008年に超Cさんという名前の大学生が、二世代身分証の申請をした際、公安からアルファベットがついた名前はだめと拒否られ、これに対し、自己の名前に対する国民の権利を主張して裁判にうったえたという事件です。

 その後、和解が成立し(中国の公対私の訴訟で和解は事実上の勝訴的意味合い)、Cさんは結局、改名しましたが、そもそも、古い身分証のときは問題なくて、新しい身分証に更新したらだめという役所も役所で、父親は「訴訟の目的は名前に対する権利に注目してほしかったから」とコメントしていました。

 キラキラネームで権力との闘いになるのはお国柄(?)でしょうか。ともあれ、近年、中国も個性的な名前がときどき話題にのぼるので、上記訂正いたします!

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チーム内で歓迎されないタイプ@中国編

 日本で集団行動をする場合、歓迎されない人の筆頭は、おそらく空気の読めない人だろう。

 でも、中国は(こんなことを言ってはなんだが)、日本的な意味での「空気を読めない人」だらけだ。というよりむしろ、空気を読んで人に合わせる、という発想が希薄なのだと思う。

 

 もっとも、中国は広いので、北と南、内陸と沿岸都市部ではまた違うかもしれない。でも、少なくとも、北京ではそうだった。

 そして、例えば、中国人グループと遊びに行ったり、何か一つのことをしたりすると、実に皆、バラバラなのだが、逆にそれがうまい具合に生かされて、Aさんはこれ、Bさんはあれというふうに、自主的に一人一役で役割分担をし、一見するとバラバラながら、全体ではゆるくまとまっている、というような印象があった。

 

 さて、先日、ネットで調べ物をしていたら、たまたま、中国のサイトで「チーム内で歓迎されない八種のタイプ」という記事を見つけた。

 それによれば、チーム内で歓迎されないタイプとは、以下の通り。

(1)なんの特長もない人、(2)計算高い人、(3)熱意の薄い人、(4)一人勝ちしたい人、(5)向上心のない人、(6)利益を被るばかりで与えられない人、(7)相手の地位や権力で態度を変える人、(8)計略が多すぎる人

 

「なんの特長もない人」が筆頭にあがるところが中国らしい。

 そして個性を発揮できる社会のポテンシャルは大きい、とは思うものの、昨今は一人っ子政策と受験を勝ちさえすればOKの受験至上主義の影響で、個性と夜郎自大が紙一重な若者が少々増えている気がしなくもない。

 

※「团队里不受迎的八种人」

http://jingyan.baidu.com/article/86f4a73e42fd0b37d65269f4.html

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 日本の100%な顧客サービスがもたらす、かもしれないもの

 某日、東京近郊の実家に戻ったとき、出前専門の釜めしを頼むことになった。

 父が、歯が悪くてかたいものが食べられないというので、電話注文の際、ごはんを柔らかめにたいてもらえるかとたずねたところ、電話口のお兄さんはかなりしぶったあとにいわく、「ごはんをたく際に、水を大目にしてみますが、必ずしも柔らかくなるとはかぎりません」。

 

 日本にいると、ときどきこういう場面に出くわすことがあると思う。

 客のもとめるリクエストを100%満たせないかもしれないとき、先回りして「できないかもしれません」みたいなことを言われる。

 

 別にそこまで厳密に結果が伴うことを求めてないし、できるだけやってくれて、それでだめなら別にいいのにと思うのだが、そう言っておかないと、あとからクレームをつけられるのだろうか。

 日本のサービスは、どこか100%を求めていて、そうでなければ文句を言われる、だから責任をあらかじめ回避しておこう、みたいなところがあるように思う。

 

 翻って中国では、イレギュラーなことや、面倒なことは、そもそも最初から「できない」と突っぱねられることが多い。

 それでも「まあ、ダメモトで、ちょっとやってみてよ」とお願いしてみると、「むりむりむり」とかたくなに突っぱねられ、撃沈することが大半ながら、案外、交渉の余地があり、「じゃあ、やってみましょう」と、融通をきかせてくれることもあったりする。

 そしてそれで、トラブルになることはそうそうない。

 

 もちろん、日常的に中国のサービスはトラブルが少なくない。おまけに、ミスした方は、いかにそれが自分のミスではないかの釈明を、延々と、マシンガントークで語り始める。

 そこから、損の埋め合わせという「落としどころ」をめぐって、丁々発止の駆け引きが始まるので、くたびれることこの上にない。

 

 ただ思うに、中国のサービスは、そもそも問題がおきないことを前提とはしていない。むしろ問題は起きるものだから、起きたら考える(もしくは交渉する)という側面がある。

 

 それは無責任かもしれないし、実際、もう少し責任をもって遂行しようよ!!と叫びたくなることはしばしばだが、逆に日本では、100%を求めることで、実はかえって、サービスレベルが低下しているようなところがありはしないか、と思うのである。

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「ぶりっ子」という戦略

 『日本 呪縛の構図』という、読んでも読んでもなかなか読み終わらない本を読んでいたら、戦後の日本社会における女性の変革の中で、松田聖子のことを「かわい子ぶる女性を意味する『ぶりっ子』の女性としてアイドル界に君臨することになった」というくだりがあった。

 

 それでふと、中国で「ぶりっ子」は何というだろうと思った。

 調べると、「装純(純粋を装う)」「装可愛(かわいこぶる)」という単語がヒットする。

 ただ、日本と比較した場合、中国では相対的に、「ぶりっ子」はそれほど多くないのではないかという気がする。

 

 もちろん、「ぶりっ子」は世界のどこにでも一定数はいるのだろうが、中国のそれは、相手の男性が裏切ろうとしたとき、すぐさま剛毛なトラに変貌することが多いのではないか。

 一方、日本の聖子ちゃんが、切れて、いきなりトラになったりするところはイメージしにくい。

 

 これは、いわゆる「国民性」の違いということがあるかもしれない。

 ただ、振りかえれば中国は、近代の歴史において、女性に、男性と同様、革命に参加することを求めた。

 そのため、日本のように「ぶりっ子」が、一種の「現象」となるほどに練りこまれることはなかったに違いない。

 

 そして、今の中国社会は、その程度の「ぶりっ子」で生き延びられるほど簡単ではない。

 結局、「ぶりっ子」が女性の生きる術の戦略として、どこまで有用かどうかは、その国の社会、あるいはその女性が所属する社会によると思うのである。

 

※追記:「本音で付き合わない人は中国では評価が低い」というご指摘を受けて思ったのですが、日本は隠すことをよしとし、中国はオープンにすることをよしとする文化的背景?もあるかもしれません。たかがぶりっ子、されどぶりっ子、ですね♪

 

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中国と幽霊

 もう何年も前になるが、北京から東京に一時帰国していたおり、深夜2時か3時くらいに戸山公園近くの住宅街を歩いていると、赤や黄色のような派手な色使いの服を着た、背中がやけに曲がった、たぶん老婆だと思う人物が、杖にもたれかかるようにして、道端でじっとたたずんでいた。

 「たぶん老婆だと思う」というのは、うつむき加減の顔を長い白髪が覆っていて、年を取っているのか、女性なのか男性なのか、外見からしかわからなかったからだ。

 

 そのときふいに、小学校のころにはやった口裂け女を思い出した。

 なんだか今にも顔をあげてニッと笑いそうな気がして、おもわずダッシュで走りかけ、でも、一応、足は2本あるし、人間だったら失礼だよななどと思いつつ、できるだけ距離を離れて、そろそろと通り抜けた。

 

 なぜいまになってこんなことを思い出したかというと、実は先日、同じ人物を東京の道端で、見かけたのだ。

 本当に同じ人物かどうかはわからない。場所は以前のところからは電車で2駅ほど離れており、時間は夜中の12時くらいだった。

 

 その推定老婆は、やはり派手な服装に身を包み、背中を大きく丸め、杖を突いて、うつむき加減で、路肩にじっとたたずんでいた。

 冷静に考えれば、ちょっと夜中に散歩に出ただけかもしれないし、あるいは認知症を患っていて徘徊しており、ご家族が探していたかもしれない。

 

 でもそのときも、やはり、何かこの世のものではないように思えてしまい、なるべく目を合わせないようにして、さっさと通り過ぎてしまった。

 

 そこでふと、北京の路上で、このような場面に出くわしたら、果たして、幽霊だと思うだろうかと考えた。

 たぶん、私はちょっと変わったおばあさんがいるな、くらいに思っただろう。

 

 理由の一つは、唯物史観を掲げる共産党中国では、ドラマや映画に幽霊は登場せず、日常生活はおおむねオカルトとは縁遠い。

 もちろん、民間レベルで怪談話はあって、留学時代、大学の寮ではどこどこの棟に飛び降り自殺があって幽霊が出るといった話を聞いたし、幽霊屋敷といわれるところに行ったこともある(あそこはけっこうヤバそうだった)。

http://china.gaogao.boo.jp/?eid=1474703

 それでも、日本みたいに、心霊スポットがカルチャー化するような風潮はないし、あれば、「党の指導」が入るだろう。

 

 加えて、こちらのほうが、もっと大きな理由だと思うのだが、北京の路上にはパジャマで自転車をこいでいる人、片足がなくて物乞いをしている人、全身、やけどのあどで気の毒な感じの人など、実にさまざまな人々がいる。

 だから、派手な服を着た、背中の曲がった推定老婆が、真夜中に杖をついて立っていても、それほど奇怪な感じがしない。

 

 対して、東京の路上で見かけた推定老婆が幽霊に思えてしまうのは、日本的な非多様性のなせるところなのかもしれない。

 なんてことを考えたのだが、次にまた見かけたら、やはりダッシュで逃げてしまう気がしなくもない。

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握手の強度にみる中国的メンタリティ
 中国には握手の習慣がある。
 これが歴史的にどれほど古いのか、あるいは近年のものなのかわからない。
 だが、ときどき日本人の握手の感覚とは違うと感じることがある。
 
 それは例えば、取材のあとや、初対面で立場が上の人との握手で、こちらは心を込めて握っているつもりなのに、先方はやけに軽くて、「あれ? どうでもいいと思われるのかな??」と思うことがある。
 
 これは私だけかと思っていたのだが、先日、中国人と握手をしたという日本の人が、やはり、「やけに柔らかい握手だった」というようなことを話しているのを耳にした。
 
 それで、中国の握手はそもそもどういうマナーなのだろうとネットを見てみると、握手の強度について悩む人は、かの国でも少なくないようで、Q&A形式の掲示板には「どのくらいで握ったらよいのだろう」といった書き込みが散見する。
 
 これに対し、回答は「軽すぎると、相手を軽くみているような印象を与えてしまうけれど、強すぎると自分が中心であることを示しているようでそれもよくない」「男性が女性と握手するときは軽くすべし」「相手は握手を重視していないだけかもしれない」という内容。
 
 中には、「8種の歓迎されない握手方式」なる記事もあり、それによれば、ほとんど力を入れず、ささっと済ます握手は比較的多いようで、特に、冷たく湿った手で軽く握って終わりにする「死んだ魚式握手」は「大変嫌われる」と書かれていた。
 ただし、やっている人は無自覚であることも多い模様。
 
 同じ軽いパターンでも「トンボタッチ式握手」というものもあり、こちらは相手が握手を求めてきたのに気づかず、気づいたときに慌てて握ろうとして、トンボが水面をチョンチョンとタッチするような握手になってしまうというもの。
 
 一方、強くて嫌われるパターンの一つは「トラばさみ式握手」。
 これはトラばさみで挟み込むがごとく、通常より低い位置で、力を込めて握手し、さらには2、3回力強く振るというもので、こちらは権力に対する渇望と、両者の関係をコントロールしようという潜在意識を体現しているという。
 
 加えてこれよりさらに、嫌がられるのが「粉骨式握手」。
 初対面の相手との握手で、ニコニコしながら、相手の骨を砕かんばかりに手を握り、先方にこちらの威力を示さんとする人もいるそうだ。
 
 こうして見ると、こちらは心を込めて握っているつもりでも、相手には「生意気に握りやがって」と思われている可能性もあるかもしれない。また、軽い握手だからといって、特に悪意はあるとは限らない。あるいはこちらが女性だからということもあるかもしれない。
 と、そこまで思ったものの、常日頃、中国の人のほうが日本人より、相手と自分の立ち位置を図るのに長けているもしくは、そこに意識を向けている。
 そのことを考えると、やはりかる〜〜い握手には、それ相応の意図があるのではないかと、勘ぐってしまうのである。
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「自分と同じ思いをしてほしくない」
 オバマ大統領の広島訪問のニュースを見ていると、ナレーションの中で、「被爆者の方は後世に同じ思いをしてほしくないという気持ちで、核のない世界を訴えてきた」といったフレーズがあった。
 
 そういえば日本では、大きな被害や痛みを伴う事件や事故が起こると、辛い経験をした被害者の方が「自分と同じ思いをしてほしくない」と再発防止を訴えることがあると思う。
 
 その思いは痛いほど伝わってきて、本当に、二度と同じようなことが起きなければよいのにと思うのだが、同時にこれは、感情を共有する日本社会特有の言い回しではないか、という気もする。
 
 試しに、中国語でなんというのだろうと調べてみたのだが、ヒットしたのは、「自分だけが苦しみを背負う、他の人に同じ思いをさせたくないという人をどう思う?」というネット掲示板のスレッドで、それに対する回答は「善良な人」「もし親しい人だったら、一人で背負ってほしくない。自分も苦しみを分かちあいたいと思う」「そういう人には近づかないほうがいい」といった内容だった。
 
 思えば、中国には、身内でもない赤の他人と、感情を共有するという文化が希薄だ。というより、そういう発想はないと思う。
 もし仮に再発防止を訴えるのであれば、それがどれだけ悲惨なもので、我々に不利益をもたらすものであるか、といった言い回しのほうが共感を得やすいかもしれない。。
 
 しかしそもそも、今の中国社会では、利益を損なった者が補償を求め、声をあげることはあっても、一般市民が一致団結して、世界や社会をよりよくするために、再発防止を訴えるという構図はあまりないのではないか。
 
 そして、当事者でない立場の人々は、被害者を気の毒だと思いながらも、自身はそのような立場にならないよう、できるだけ賢く上手く生きることを選択しようと考えるのではないか。
 
 そう考えると、「自分と同じ思いをしてほしくない」という日本人的な善良さは、中国という国では理解されがたい感情かもしれない。
 
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戦略的偽装離婚
 ひょんなことから偽装離婚を調べていると、日本のウィキペディアに「偽装離婚」の項目があった。
 生活保護や児童扶養手当の不正給付を目的とし、偽装離婚するカップルがいるそうで、ネットではそのようなルール違反による不正が激しく非難されている。
 
 一方、中国のウィキペディア的「百度百科」には、「中国式偽装離婚(中国式偽離婚)」という項目がある。
 中国では例えば、不動産投資への過熱を抑制するために、一家族で購入できる不動産数に制限を設けたり、住宅ローンの優遇措置を一家族につきマイホーム1戸までとしたりする政策がある。
 そして政策が出るたびに、離婚ラッシュがニュースになる。
 
 そのほかにも、一人っ子政策に違反して二人目の子供をもうけるため、妊娠直後に離婚、その後は仮面離婚夫婦を続けるという話や、子供の義務教育が戸籍問題と複雑に絡むことから、子供をよりよい学校に進学させるために偽装離婚するといったケースもあり、これらをひっくるめて「中国式偽装離婚」と称する。
 
 日本も中国も、ずるして得をとる戦略的偽装離婚であることにかわりはないのだが、中国ではその「ズル」を声高にバッシングするという現象はあまりみない。
 むしろ、新聞のコラムで「偽離婚現象は、人の道徳は完璧だという考えに基づく不動産投資市場の調整政策の過ちを露呈した」といったことが書かれたりする。
 
 
 そこに、日本と中国の、国と個人、お上と庶民の関係性の違いを見るようである。
 
「新京報:“假离婚”套利警示楼市控思路
http://epaper.bjnews.com.cn/html/2016-04/14/content_630724.htm?div=-1
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