中国在住10年を経て帰国。
中国、という日本とは違った視点で、
日本をあれこれ考えてみる、
日中文化考ブログ by 田中奈美
子供の虐待死は行政のせい?

 日本のテレビでニュースを見ていると、子供の虐待死を報じていた。

 児童相談所が保護していた児童を親元に戻したところ、2週間後に虐待で亡くなったという。

 

 これについて、児童相談所の判断が妥当だったのかという報道である。

 子供を殺してしまう児童相談所は税金ドロボーだという批判がある。しかし、児童相談所が税金を有効活用してきちんと機能していたら、子供は死なないものなのだろうか。

 

 私は実のところ、日本の児童相談所がどれだけいいかげんで酷いところで税金ドロボーなのかを知らない。

 だからこんなことを書く資格はないのかもしれないが、ただ少なくともテレビに出ていた児童相談所の職員は、その人自身親元に戻したことをとても悔いているようだった。

 

 子供が親といられるならそれに越したことないだろう。

 親元に戻して、親子の間に信頼関係が少しでも生まれる可能性を模索できるのであれば、それがベターではないだろうか。

 

 しかしそうしたことが可能な状況なのか、あるいは子供を親から切り離し続けなければ子供の命が守られないほど危険な状況なのか、その判断は、「プロ」であれば簡単につけられるものなのだろうか。

 

 物事がよい方向にいくかどうかの境界は、ときにとても曖昧だ。

 よい方向に向かうことを願って行ったことも、時に逆にとりかえしのつかない結果をもたらしてしまうことがありうるだろう。

 

 改めて、子供の死は行政の責任だろうか。純粋に、親の責任ではないのだろうか。

 行政は子供を過度に保護すれば拉致だといわれ、子供を親元に戻せば無責任だと責められる。その状況でどうやったら「正しい判断」をすることができるのか。

 

 批判や批評は社会をかえうる力となる。

 しかし本当の意味で社会を「正しく」変えうる批判というのは、案外、非常に難しい。

 なせなら「正しい」ことが、よりより未来を作るとは限らないからだ。むしろその「正しさ」が社会をより狭窄で排他的なものとしうる。

 

 児童相談所のことでいえば、相談所は子供の命を守るべきである。

 それは正しい。

 守れない児談所が批判されるのも当然である。

 でもその「正しさ」が、今後、児童相談所のありようをよりよいものにしてゆけるとは、どうしても思えない。

 

 いま日本に必要なのは、「正しさ」を前面に押し出した批判ではなく、複雑な状況の中でどのように事態を好転させてゆくかを模索するための、良質な議論ではないのだろうか。

 しかしその議論の部分より、批判のほうが横行しているように思えてならない。 

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お客さんの喜びは自分の喜び@日本

 帰国して、うっかりパソコンの電源コードを荷物に入れるのを忘れたことに気付いた。

 実家近くの家電量販店に行き、見つけたパソコン用コードに記載された「利用できるパソコン」の型番は、私のパソコンとは最後の一桁があっていなかった。

 

 案内カウンターで使えるかどうか聞いてみると、「パッケージに書かれていない型番は、動作確認がとれていないということだと思うので、その場合、買っても動かないということもありますよ」という話。

 

 それでも、違っているのは最後の一桁だし、もう一か八かで買うしかないと、財布を出すと、「少々お待ちください」とカウンターのパソコンに向かったお兄さん。

 メーカーのページを探し、製品情報の詳細をチェックしてくれ、「あ、大丈夫みたいです! パッケージに書いていないだけで、動作確認はとれているようです!」と満面の笑顔になった。

 

 これが中国ならばたぶん、「型番が微妙に違うが使えるか?」と聞いたところで、根拠のない自信を持って「没問題!」と言われるだろう。

 よしんばこちらが「ちょっと詳細を調べてよ」とお願いし、動作確認がとれていることがわかったところで、「だから没問題だって言ったじゃん」という顔をされるのが関の山で、「使えてよかったですねえ!」などと一緒に喜んでくれたりすることは、まず期待できない。

 

 それはそれで、そういうカルチャーだと思うのだが、普段そんな中にいる分、「よかったですね!」などと日本的「おもてなし」を受けると、うっかり心にしみてしまうのである。 

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お客さんの喜びは自分の喜び@日本

 帰国して、うっかりパソコンの電源コードを荷物に入れるのを忘れたことに気付いた。

 実家近くの家電量販店に行き、見つけたパソコン用コードに記載された「利用できるパソコン」の型番は、私のパソコンとは最後の一桁があっていなかった。

 

 案内カウンターで使えるかどうか聞いてみると、「パッケージに書かれていない型番は、動作確認がとれていないということだと思うので、その場合、買っても動かないということもありますよ」という話。

 

 それでも、違っているのは最後の一桁だし、もう一か八かで買うしかないと、財布を出すと、「少々お待ちください」とカウンターのパソコンに向かったお兄さん。

 メーカーのページを探し、製品情報の詳細をチェックしてくれ、「あ、大丈夫みたいです! パッケージに書いていないだけで、動作確認はとれているようです!」と満面の笑顔になった。

 

 これが中国ならばたぶん、「型番が微妙に違うが使えるか?」と聞いたところで、根拠のない自信を持って「没問題!」と言われるだろう。

 よしんばこちらが「ちょっと詳細を調べてよ」とお願いし、動作確認がとれていることがわかったところで、「だから没問題だって言ったじゃん」という顔をされるのが関の山で、「使えてよかったですねえ!」などと一緒に喜んでくれたりすることは、まず期待できない。

 

 それはそれで、そういうカルチャーだと思うのだが、普段そんな中にいる分、「よかったですね!」などと日本的「おもてなし」を受けると、うっかり心にしみてしまうのである。 

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映像の力と誤解

 日本のテレビを見ていると、シーア派最大の宗教行事だというアシュラの1シーンを放映していた。

 そこでは人々がこれ以上ないハイテンションで「アメリカに死を!」と拳を振り上げていた。

 

 大変なエネルギーが伝わってくる迫力の映像だったが、それでふと思った。

 当然ながらこれはあくまで、アシュラではこれだけ人が盛り上がるという映像であり、このカメラのまわっていないところに、これとは異なる日常が膨大にあるだろう。

 

 したがってこのアシュラでの盛り上がりが日常の中でどれだけのものなのか、どういう位置づけのものなのかということは、番組全体でそういう構成をとっていないかぎり、その地の空気を知らない者にはわからない。

 

 加えて、異なる日常の中に身をおいた経験をもたない場合、その「わからない」という感覚もわからないかもしれない。

 

 映像には力がある。力があるということは、その分、背後にあるであろう複雑で多面的で多様な万華鏡のような日常を覆い隠す。

 1年前、日本で放映された激しい反日デモの映像もそうだった。

 

 でもそれはよい悪いの問題でなく、ただそういうものであり、そういうものだと知っていることがより開けた未来につながってゆくのではないかと、反日デモ1周年を前に思うのである。

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日本のウィークリーマンションでシーツが使い回されていたら。

 日本でよくウィークリーマンションを利用する。

 同じ管理会社を利用しているのだが、このところ利用する部屋の布団シーツに煙草の匂いと男性の油っぽい匂いが残っていることが続いた。

 

 単純に考えればシーツを交換していないのではと思われたが、クリーニング代金として毎回1万5000円ほどとられている。

 ここは日本だし、ウィークリーマンションでシーツを交換していないなどということがあるのだろうかと思うも、すでにもう3回くらい同じことがあった。

 

 管理会社に問い合わせると、清掃業者に問い合わせてくれて、「新しいのにかえてはいるが、どうしても気になるようなら新しいものをお持ちする。ただ不在のときに部屋に入ることを許可してほしい」という話だった。

 

 それも面倒なので、とりあえずこのまま利用することにしたが、それでもちょっとかなり匂いがきつい。

 おもいきってシーツを自分で洗ってみた。

 すると匂いは消えた。

 

 ということは、清掃業者は確信犯的にシーツ交換をしていなかったのだろう。物件の管理会社はグルというより、そこまで監督していなくて知らないのだろうと思われた。

 

 中国ならギャーギャーと大騒ぎしてクレームするところだが、ここは日本なのでどうしたものか。

 しばし逡巡したのち、結局、次回、利用するときにまた考えようと、先延ばしすることにした。 

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マナーの齟齬
 東京のマクドナルドでコーヒーを買おうとすると、アフリカのどこかの国の高校生らしい集団がどやどやと入ってきて、大声で話しながら、カウンターにいた私を押しのけて注文しはじめた。

 国際的なスポーツの交流イベントのようなものに参加する道中といった様相で、日本語は全く通じていない。

 

 他の客の冷たい視線にも全く気付く様子はなく、店員のおねえさんは困りはてた顔で、押しのけられた私に「すみません」と謝っていた。

 でも中国ではよくあることなので、どうということはない。

 

 北京では五輪開催の際にマナー向上をさんざんとなえたせいか、こうした行為が「恥」という認識は一応ある。

 でも自分がその立場になると、大声でおしゃべりしながら、前の客をぐいぐい押したりする。

 

 この場合、わざと割り込みしようとしているわけではなく、単におしゃべりに夢中で周りが見えていないだけなので、「押さないで」と声をかければ、瞬間的には行儀よくなる。でも少したてばまたもとの状態に戻る。

 おそらくアフリカの彼らも同様だろう。

 

 そして彼らの国ではおそらく、こんな風にガヤガヤと押しつもまれつ買い物をしているのだろうと思うと、一見さんで日本にやってきたであろう彼らに、日本的マナーを守れというのは少々気の毒なことに思えてくる。 

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マジックリン
 実家の押し入れにしまってあったプレスチックの米櫃を、10年ぶりに思いだしてひっぱりだしてみたところ、もとの油汚れの上にほこりがついてしまい、かなり汚くなっていた。

 

 これはもう捨てるしかないかなあと思いつつ、ふとそこにあったマジックリンでささっとふいてみたら、あっという間に綺麗になった。

 マジックリンを使うこと自体10年ぶりくらいなので、全く気付かなかったが、大変使い勝手がよく、しかも鼻をつくような匂いも全くない。

 

 これは、日本ではフツーのことかもしれないが、中国の掃除用洗剤はこんなにささっときれいになったりすることがないうえに、比較的落ちのよいものは、非常に匂いがきつい。

 

 そういえば以前、久しぶりに日本のクレラップをつかったときには、あまりにも切れ味がよいことに感動してしまった。(中国の食品保存用ラップは非常に切れないうえに、ピタッと貼りつかない)

 こんな日用品でもきめ細かい行き届きぶりを発揮して精緻を極めてしまう日本人は、もしや世界基準では相当変わっているかも、とまで思ってしまう。 

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「優先席」の日本語&中国語表現
 東京で地下鉄に載っていると、「優先席」の表示に英語と韓国語と中国語が併記されていた。

 韓国語はわからないが、英語はプライオリティシート、中国語は日本語の「優先席」をそのまま簡体字表記にした「先席」とある。

 

 こういうときいつも思うのだが、日本語の漢字をそのまま中国語にしても、中国の人にはあまり通じないのではないだろうか。

 例えば成田空港のトイレの非常ボタンも、中国語で「非常ボタン」と表記されているが、中国語の「非常」は「VERY」の意味しかない。言うなれば「緊急ボタン」ではなかろうか。

 

 また「優先席」は、あえて書くとしたら「愛心座位」というような感じになるかと思う。

 でも北京の地下鉄では、「老幼病残孕(老人、幼児、病人、障害者、妊婦)」と、優先されるべき人が具体的に表記されていたりする。 

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日本的けんか

 東京の薬局に入ろうとしたときのこと。

 ベビーカーに赤ちゃんをつれた30代前半ほどの女性が、入口で年配の男性と言いあっていた。

 

 どうやら女性のベビーカーが男性にぶつかり、男性が文句を言ったところ、逆に女性が「ぶつかっといて謝りもしないで!」と切れたらしい。

 日本人的にはかなり激しくやりあっていたほうだと思うが、中国人的には出力60%程度である。

 

 こういうとき北京では、しばしば野次馬が子連れの味方となり、その援護射撃にたじたじとなった男性が捨て台詞を吐いて去る。

 あるいは「まあまあ子供もいるんだし、二人とも大概にしなさい」というような通りすがりのおばちゃんの仲裁が入り、二人が囂々と散らす火花を消火する。

 

 では東京ではといえば、通行人も店内の客も、誰も何事も起こっていないかのように通りすぎてゆき、薬局の店員さんが、女性と男性の両方に「すみません、店内が狭いんで」などと言いながら、ペコペコ頭を下げていた。 

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日本的ルール違反

 平日の昼時、東京駅近くのビル内のレストランで友人と待ち合わせした。

 先についたのでレストランの中をのぞくと、混んではいるものの空いている席もある。

 

 そこでずんずん中に入って行ったところ、「お客様! お客様!」と呼びとめられた。

 「あ、2名です」と言葉をかえせば、店員はまさに慇懃という名の笑顔をうかべ(ただし目は笑ってない)、「入口で番号札をお取りください」とのたまった。

 

 ひきかえしてみれば、たしかにレジの脇に、銀行にあるような番号札の発券機があった。

 「あら〜、ごめんなさい」と番号札をとったが、中国ではこれは「人情味がない」といわれるサービスだなと、ちらとよぎる。

 

 また同じく東京で、地下鉄の改札脇のATMでお金をおろそうしたときのこと。

 使用中だったので、その後ろ3、4歩離れたところで待ち、あいたところでATMに近づいた。

 

 すると脇からささっと人が滑り込んできた。「この日本で横入り?!」と、びっくりしてそちらに顔をむけると、実はATMの脇、1メートルほどはなれたところに並ぶスペースがあり、すでに3、4人の人が待っていた。

 滑り込んできたのはそこに並んでいた人だった。

 

 「あ、すみません」と並びなおしたものの、中国ではこんなに離れたところに並ぶスペースつくっても、誰も気づかないし無視して勝手に並ぶだろうなと、つい考えてしまう。

 

 こうして北京にいると、常々「ちょっとはルール守ろうよ!」とストレスがたまりまくるのだが、日本に戻ったら戻ったで自分が「ルールを守らない人」になってしまうのである。 

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